イの国探検隊ファンの皆様、アマに内包されしカミの末裔の皆様もこんにちは
 

⑤の鹿児島県からのつづきで「神」阿多~伊勢のラインをたどります。

の続きです。

イヒ

 

あくまで、探検の記録なので、単調で、混沌としています。

砂浜を歩いてゴミを拾って、瑠璃色の石を探すようなものだと思っていただきたい。もぐもぐ

 

 

完全にイメージ画像(本文とは無関係)

 
ルートが、

笠沙の宮跡→伊勢神宮、その先へのラインがあるのではないかと妄想

 

↓このライン

四国足摺岬→室戸岬→熊野→伊勢

阿多を出発し、日向を通り、四国の岬を綺麗に通過するライン上の伊勢神宮内宮・・・

 

航海の山当てになっていると仮説妄想しながら探検だ!おーっ!

 

宮崎県内

 

荒ヶ田の田の神
宮崎県都城市丸谷町
屋外の石像のようです。
建立年:不詳、神像型座像、像高74cm、像幅78cm、奥行33cm、 冠を被り、衣冠束帯で両手先はよく分からず、彩色無し。
 

年神様=田の神=作神、農神、野神、穀霊神、水神守護神、特に山の神信仰や祖霊信仰との深い関連。狐が田の神の使いに由来し、稲荷神を勧請して祠。

 

大年神社
都城市丸谷町2173
詳細不明
 
穆佐神社(むかさじんじゃ)
宮崎市高岡町小山田3468
御祭神    
應神天皇
仲哀天皇
神功皇后
応永初年旧鹿児島藩主八代島津久豊穆佐城主たりとき、使を豊前宇佐神宮に遣はし御分霊を奉迎し、穆佐城の西約二十町を離るる字小小山に社殿を建立し、宇佐八幡宮と称え、永く島津家の宗廟氏神とし尊せり。
安政三年(1856)月日不詳火災に罹ったが直に改築した。
廃藩置県後、明治五年郷社に列し穆佐神社と称する。明治三十九年、神饌幣帛料供進社に指定された。
境内には六百有余年の楠木が三本有り。
 
花見神社(はなみじんじゃ)
宮崎市宮崎市高岡町花見1312-ロ

素盞嗚命
大己貴命(大国主)
手力雄命(天手力男神、天手力雄神)
国作命(大国主)
菅丞相(かんじょうしょう)(菅原道真)
武内宿禰

当社の創立年代不詳。旧称「祇園
1394~1428年島津氏が伊東氏に代り当地を領有するや、島津家の祖八代久豊公は祇園神社を再興し厚く尊崇
1568年社殿再興の棟札写しがある。
元亀天正年間、島津氏と伊東氏との戦乱の際、兵火に罹り灰燼に帰す。
島津氏十七代の義弘公は当神社を祈願所として、社地四面神領若干を寄進し、花見村の宗廟として厚く尊信
元同村下流水に鎮座していた。寬文年中暴風のため社殿が破壊し、八反の岩窟に鎮座の大将軍社と合祀し同地遷座。
明治3年花見字楠元に鎮座の下尾神社(祭神・菅丞相、武内宿禰)を合祀
明治5年村社に列せられる。大正2年許可を受け岩窟前現在の地に移転する。大正13年勅令により神饌幣帛料供進の神社に指定される。
 
手力雄命
アマテラスを岩戸から引きずり出して、世界に明るさが戻った。天孫降臨の際、アマテラスが三種の神器にオモイカネ、タヂカラオ、天石門別神を副えた。その後伊勢佐那県(三重県多気町佐奈)に鎮座した。
 
瓜生野八幡神社(うりゅうのはちまんじんじゃ)
宮崎市大瀬町5714

足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)
仲哀天皇、足仲彦天皇、足仲彦尊)
帯中日子天皇
誉田別命
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
仲哀天皇
應神天皇
神功皇后

聖武天皇の御宇天平九年(737)この地に勧請されたと、棟札に明記。
古くから瓜生野八幡宮と呼ばれ崇敬。
付近に宇佐八幡宮領瓜生野別府があったので、その鎮守として勧請と思われる。
所蔵の棟札には、延長2年(924)、元久元年(1204)、慶長16年(1611)、寛文8年(1668)、寛延3年(1750)と、たびたび造営再興。
明治四年八幡神社と改称し、郷社。
社殿後方には、半壊の古墳封土があり、また境内のクスノキ群落は、瓜生野八幡クスノキ群として、昭和二十六年国の天然記念物に指定。
その最大は、幹回り約8.9mで樹齢八百年と推定。また、宝物として仏光背一面を所蔵。
 
仲哀天皇(足仲彦命
日本武尊の子で神功皇后の夫成務天皇直系でなく、景行天皇皇子日本武尊の第二子であるという。通説では実在性の低い天皇の一人。
門脇禎二によれば、諡法においては「仲」の字は配すべからざる語であり、漢風諡号としては異例。
再叛した熊襲を討つため親征し穴門豊浦宮に滞在。即位8年、筑紫の橿日宮に至るも熊襲に敗れる。即位9年には親征先の筑紫で崩御。熊襲の矢に当たったともされる。その10カ月後、皇后が誉田別命(応神天皇)を生んだ
白鳥となって天に昇った父の日本武尊(景行天皇41年に30歳で死去)を偲んで諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺した。
 
蘆髪蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ)(足鏡別王)
日本武尊の子、母は山代之玖玖麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)で、鎌倉別、小津、石代別、漁田別の祖とされる。葦敢竈見別王で、竈口君等の祖。また蘆髪浦見別王とも。
 
白鳥神社が見つめる阿波山の悲願
金剛禅寺(金剛寺)
宮崎市大瀬町5650
八正山(はっしょうざん)金剛寺(臨済宗妙心寺派)  

八正山金剛寺は臨済宗妙心寺(みょうしんじ)派の寺で、1336年に創建と伝。

1871(明治4)年、廃仏毀釈により廃寺となったが、明治42年、大光寺52代月山宗訓(そうくん)和尚により再興
 
 
小原山第 2遺跡
宮崎市上北方
縄文時代の遺物として出土土器には、貝殻腹縁刺突文を縦位、斜位に施している。
 
廣原神社(広原神社)
宮崎市広原5832
建年代は明らかでない。
別当寺である極楽寺の創建が鎌倉時代と考えられ、その頃に極楽寺鎮護の社として建立であろう。
明治維新以前は、山王社と呼ばれ、今も氏子等は山王様と称している。
江戸時代以降、広原村の総鎮守の社となり、明治22年芳士、広原、島之内、新名爪、塩路の旧五ヵ村が合併して住吉村が成立してからは、大字広原の鎮守の社として地区民の尊崇をあつめてきた。明治二年に村社になる。もとの鎮座地は、今の極楽寺地区の西、およそ三百メートルの所。境内にあった手力男神社本社に合祀。末社に三野大明神(通称、寺大明神)。
※神楽
約三百年位前から春秋の社日、祭典日に奉納され今日も続いており、春、秋の例大祭に奉納。以前の三十三番から現在は半分程度になった。奉納者は二十数名。
 
豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は当社の復興に尽力
下那珂神社
宮崎市佐土原町下那珂11678

大山祇神
彦火瓊々杵尊(ひこほににぎのみこと)
吾田鹿葦津媛かむあたかあしつひめ)
立次日下次郎(たてつぐくさかべじろう)
立成日下三郎(たてつぐくさかべさぶろう)
立継草壁四郎(たてつぐくさかべしろう)

 
下那珂字成枝田に鎮座する神社。往時は生井田大明神と称した。都萬神社、祠官・日下盛俊が那珂郡司職であった時、天徳二年(958)十一月此地に奉祀すると伝。
社蔵の棟札に、宝徳二年(1450)藤原秋賀、慶長十五年(1610)島津忠興公により再興。なお鎮座地である成枝は生井田を原名とし、を意味する。天正時代に現在の文字に改められた。
石段の両側に建立の石燈籠の竿石に「明治二十四年四月中旬より日照り続きで、作物は枯死寸前、鎮守や八百万の神に祈願したがその験はなく、岡住民は往古より秘術伝来の臼太鼓を以て、神々に祈ったところ、六月二十七日正午東天にわかに雲を起し天雨を賜り作物は生き返った。よってこの石灯を奉納した。」と記されており、水神様としても厚く尊崇。
 
主に海神を祭るのは分かるが、「日下(くさかべ)」が目立つ。
 
日下
太陽が照らす下。日の光のもと。天下。
 
読みが同じ「くさかべ」なら
草壁町(くさかべちょう)
香川県小豆郡にあった町。スサノオが牛を飼うことを広めた伝あり。
 
草壁皇子(くさかべのみこ、くさかべのおうじ)
天武天皇と皇后の鸕(鵜)野讚良皇女(後の持統天皇)の皇子。妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である(阿陪)皇女(後の元明天皇)。元正天皇・吉備内親王・文武天皇の父。諡号は岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと、おかのみやぎょうてんのう)。宮天皇、長天皇とも称される。『万葉集』では日並皇子(ひなみしのみこ)とも。
 

宇閇神社(本宮)

 

 

起源にはいくつかの系統がある。

 

1.饒速日命の孫・彦湯支命(比古由支命)の後裔。物部氏の一族。

2.開化天皇の孫・山代之大筒木真若王(彦坐王の子)に始まる、但遅麻国造族の日下部君。

3.開化天皇の孫・狭穂彦王(彦坐王の子)に始まる、甲斐国造族の日下部直、河内の日下部連。

4.孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔(『朝倉始末記』)。

5.大彦命の子・紐結命に始まる日下連。

6.若多祁命の子・田狭乃直に始まる伊豆国造族の日下部直。

7.天日和伎命の6世孫・保都祢命の末裔の日下部首。

 

2・3の系統はいずれも彦坐王の後裔とされている。また山代之大筒木真若王後裔説と孝徳天皇後裔説のどちらも表米以降の系譜はほぼ同じであるが、部民制度の成立を考えた場合にとくに4の孝徳天皇後裔説は疑問点が多いとされる。


彦坐王(ひこいますのみこ/ひこいますのおう)
「日本書紀」開化天皇紀によれば、第9代開化天皇と、
和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子。同書における子女に関する記載は、垂仁天皇紀において丹波道主命が子である旨のみ(ただし丹波道主命は彦湯産隅王の子という異伝も併記)。

また、雄略天皇の皇后であり仁徳天皇の皇女でもある草香幡梭姫が生活する資用に充てられた料地の管理等に携わった部民が、この皇后の名に因む(いわゆる名代部)とする説がある。そして、この部民は各地に配置され屯田兵のような軍事集団の性格を持つものでもあったとされる。

くさかべ(日下部)の表記は、和歌の枕詞、「日の下の草香(ひのもと の くさか)」より生じた表記と言われる。

 
なんとなく宮崎県の気になるものをまとめると、
荒ヶ田の田の神と大年神社、田の神は年神様であり、山の神信仰や祖霊信仰との深い関連で、田の神の使いは狐であり、稲荷神にも繋がる。
穆佐神社は、豊前宇佐神宮から勧請し、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祭り、島津氏が信仰。楠木が気になる。
花見神社は、素盞嗚命、大己貴命(大国主)、手力雄命(天手力男神、天手力雄神)
国作命(大国主)、菅丞相(菅原道真)、武内宿禰とあり、主には鰐に繋がる。
手力雄命は、天孫降臨の際、三種の神器にオモイカネ、タヂカラオ、天石門別神を副えその後、伊勢の佐那県(三重県多気町佐奈)に鎮座。
島津氏が伊東氏に代りるや、島津久豊公は祇園神社を再興し厚く尊崇。
下尾神社(祭神・菅丞相、武内宿禰)を合祀。神饌幣帛料供進の神社に指定。
瓜生野八幡神社は、宇佐八幡宮領瓜生野別府の鎮守として勧請され、たびたび造営再興。社殿後方には、半壊の古墳封土。境内のクスノキ群落があり、気になる。八幡であり、「天」はクスノキなのか。日本武尊の子で神功皇后の夫である仲哀天皇(足仲彦命)、の子の誉田別命も祭り、仲哀天皇は、父の日本武尊を偲んで諸国に白鳥を献じることを命じている人物。
金剛禅寺(金剛寺)は、廃寺を、明治42年、大光寺の月山宗訓和尚が再興。直接のことではないが大光寺氏は、南部氏につながる。これは、平安時代末期に起きた前九年の役や後三年の役では、清和源氏の棟梁、 源頼義父子が現在の盛岡に来歴したが、頼義の嫡子義家の弟の源義光の孫である清光の子孫は甲斐源氏と称された武田氏、加賀美氏、安田氏、浅利氏などの諸氏族があり、加賀美氏からは、さらに南部氏が別れている。同時に、秋山氏、小笠原氏なども別れている。小笠原氏といえば、阿波小笠原氏につながる。
小原山第2遺跡は、縄文時代の遺跡で、出土土器には、海洋民を思わせる貝殻腹縁刺突文を縦位、斜位に施している。
廣原神社(広原神社)は、別当寺が極楽寺、その鎮護の社として建立と想われ、山王信仰が伝わる。手力男神社を合祀。山王信仰といえば、豊臣秀吉と徳川家康も厚い信仰。
下那珂神社は、祭神に大山祇神、彦火瓊々杵尊、神吾田鹿葦津媛、立次日下次郎、立成日下三郎、立継草壁四郎とあり、主に海神を祭り、くさかべ(日下)が目立つ。かつて香川県小豆島には草壁町があった。
草壁皇子は、諡号は岡宮御宇天皇。岡宮天皇、長岡天皇とも称され「岡」の字が目立つ。天武天皇と皇后の鸕(鵜)野讚良皇女(後の持統天皇)の皇子。妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿閇(阿陪)皇女(後の元明天皇)。「鵜の讃」は讃岐の難破にある鵜のべ山(3世紀古墳)を思わせる。「閇」は、「宇閇神社(うのいじんじゃ)を思わせ、「鵜+閇+イ」な感じ。
日下は、1.饒速日命の孫・彦湯支命(比古由支命)の後裔。物部氏の一族。2.開化天皇の孫・山代之大筒木真若王(彦坐王の子)に始まる、但遅麻国造族の日下部君。でみれば、彦坐王の後裔。彦坐王は、第9代開化天皇と、和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛との皇子。くさかべ(日下部)の表記は、和歌の枕詞「日の下の草香」より生じた。つまり、天照=「天」族。和珥(鰐=海「神」)は天と合体して内包されている。
 
 
まとまりないですが、今日も妄想です。
 
ではまた。DASH!グラサン