昔読んでなんだこりゃと思ったが、読みなおしてみても印象は変わらない。マス・イメージ論が
1984年、ハイ・イメージ論Ⅰが1989年である。どちらも恐ろしく空雑でうそ寒い読後感を与える。
マルクスやそれ以降の思想を完全にこなしていないとこの本は理解できないのかもしれないが、
私のように浅学非才の徒でも小説や音楽の批評がこんなにもヘンテコリンな装置で行われる必然
性があるのかね。と思うが。
マス・イメージ論もハイ・イメージ論も論法は同じでまず前段で古典的小説やら社会科学の分野
からある概念を吉本独自の手法で作りあげ(それがどの程度に有効性のあるものかちょっと素人
には分かんとです)、それを現代(と言っても二十年以上たっているが)の小説やマンガに当てはめて
批評(?)してみるという方式になっている。マス・イメージ論の帯で面白いコピーがあって「現在」と
いう作者は果たして何者なのか!とあり、純粋な作家論、作品論ではなく作品の成立を促した「現代」
の分析にまで踏み込んでいるものとされている。
だから通常、私たちが小説や読書に求めるものと吉本が題材にする小説は優れたものでなくても
いいし、マンガでも歌謡曲(何がJポップだよ)でもコマーシャルフィルムでもいいわけだ。
自分が作り上げた思念のモデルを基準にすれば批評できないものはないということになる。
弱い頭で、マス・イメージ論の「喩法論」というのを四回、読んでみたがさっぱり書いてあることが分から
なかった。
現在ということを俎にのせると、言葉がどうしてもとおらないで、はねかえされてしまう領域があらわに
なってくる。それ以上無理に言葉をひっぱると、きっとそこで折れまがってしまう。もちろん渦中にあれば
その全体を把握できないのは当たりまえのことだ。未知の部分をいつもいつもひきずっていることが、現在
という意味なのだから。
冒頭の言葉だが、勘弁してくだせえお代官様。何がなんだかさっぱり分かんないすよ。日本人でこれだけ
読んで意味を了解できる人がいるのだろうか。言葉というものを我々、凡人は普通、相手との意思疎通や
自分の思考を具体化するものとして捉え使用している。それが通らないではねかえされる領域とか、言葉
をひっぱると言われてもどうにもこうにも良く分からない。
この調子で論説は続くのだが、批評されているのはその当時(文中では現在)の現代詩である。
薄らぼんやりとした理解でしかわからないが、この論考ではまず、その当時発表された「女流」詩人
の詩が三篇紹介されている。(ちなみに私の印象ではあんまりいいとは思わない。)それらの解説になると
わりと平易な批評になり、女性に立場が今までと違って男性と同等の立場になって性に関する事柄を詩に
しているとういう割と誰でも口にする事柄を述べるが、その繋ぎが、<閉じられた言語系>とか<開かれた
言語系>とか能無しには難解で理解不能な概念を説きかけてくる。
次は御大の好きな中島みゆきとユーミンの歌詞を載せて、これらの作詞は現代詩の水準のなかでも
大したものだ、これを軽んじる奴は馬鹿だという御宣託をする。歌謡曲やその他の商業的な歌では、本当
の「自分」の感情から離れたところに世界が設定されるが、まあそれをくどくどしく吉本は述べているような
気がする。(間違っていたらごめんなさい。)
それからねじめ正一のなんとも下品な母ちゃんとセックスする情景の「詩」をとりあげ
うがっていえば、いまはどんな村落からも消えてしまったアジア的な<共同体>のなかの、ただ
ひとり<人間>であることを許された首長のように、自由の女性を手元にひきよせ、自由に侵したい
という、裏返された願望を喪失の暗喩によって語りあげているとみえる。
はあ、さようでございますか。としか私にはいいようがない。この下品な詩が今も昔も人々の琴線にふれた
とはとうてい思えない。
次ぎにはRCサクセションの「さんばんめに大切なもの」と「きみかわいいね」を俎上にのせ、訳のわからない
ことを書いているがこれはなんとなく褒めているようである。でもこのRCサクセションの歌ってたしか69年く
らいの歌で「84年」の「現在」と同レベルで語れるのだろうか。
荒川洋二という人の詩が解説され最後に中島みゆきの詩がどうだこうだ言われてこの稿は終了。
つたない感想としては以下のようなものだ。
(1)自分のような者には到底、この文章を理解することはできない。
(2)よく分からないが、吉本は作品を半分は「現在}を解明するツールとして看做している。
(3)中島みゆきやユーミンは御大がこのような「評価」を加えなくても十分、大衆に親しまれているのだか
らそれでいいのではないか。
(4)読後、なんとも言えない空しさに襲われる。
まあ、そんなところです。
自分の能力では到底読解できるものではありません。もう吉本いいやという気になる二冊である。