何回も書いて申し訳ないけれど、マルクスの正統的理解者として吉本を読み込んだ人は
そうはいないと思う。吉本の正統的仕事、「共同幻想論」「言語にとって美とは何か」「心的現象論」
をそれなりに理解するにはおそらく相当の本を読まなくてはならない。僕も一念発起してフロイトとか
マルクスを少し読んだが難しくてすぐ頓挫してしまった。多分、「共同幻想論」がなんだったか分らないで
死んでしまうのだと思う。それでもいいが。自分のことから人様を類推して申し訳ないが吉本を好きな人は
その罵詈雑言が面白くて読んでいるのだ。埴谷雄高だって「試行」は情況への発言から読んでいた。
ブログでの喧嘩がアクセスがあがるように吉本の罵詈雑言は面白い。大概の吉本信者は「情況への発言」
から入信するのだと思う。40年もまえのクソミソだがこれが今読んでも面白い。恐らく「ハイ・イメージ論」が
読まれなくなる50年後も「情況」「情況への発言」は陰気な外れ者に束の間の勇気を与えるだろう。
神田の古本屋のゾッキ棚から、いや早稲田の古本屋のゾッキ棚だろうか450円で買ってきた黄ばんだ
「吉本隆明全著作集 (続)10 思想論Ⅱ」と仰々しいが「情況」と「情況への発言」という(「情況」は
昭和四十四年から四十五年まで河出書房の「文芸」に毎月掲載され、「情況への発言」は「試行」昭和
44年8月刊行収録から昭和53年1月まで掲載された後書で罵詈雑言の度合いは凄まじい。吉本の年齢
は昭和の年号に一つ足したもので、二つの著作(罵詈雑言集)は45歳から55歳までの油の乗り切った時期
もしくはヨシモトリュウメイの言説が時代にまだずれていない頃だと思う。そしてやっとメジャーに登場してき
たのが、1968年・昭和43年の河出書房で出版された「共同幻想論」である。筆一本で生活するようになった
のはこの前後であり、それまで遠山啓に紹介された特許事務所で翻訳の仕事をしていた。ウィキペディアに
吉本は原書を読めないと書いてあったが、誤りだ。フロイトやマルクスなどは原書で読んでいる。
高校生の頃、「文藝」に掲載された「情況」や「吉本隆明全著作集」などでの他の作家へのボロクソの洗礼を
受けて花田清輝や吉行淳之介、安岡章太郎なんかは吉本隆明に較べれば屁のようなものに思えて、特に
吉行淳之介などはそれまで少し読んでいたのに急に馬鹿にするようになってしまった。
「文藝」に掲載された「情況」は十二編あり、当時出始めた構造主義の読解やサイバネティックスの批評など
あったが、そんなものは頭の悪い高校生は理解できなかった。今、読み返しても良く分らない。面白かったの
「倒錯の論理」にあるこんな箇所だ。
三浦朱門が日大の教授であったが、時あたかも学生運動の最中であり日大もその騒動の渦に巻き込まれ
三浦の研究室に学生が押し入り大事な研究の蔵書を引き出しあろうことか焚火で燃やしてしまう。三浦は
憤慨して学生と口論するが学生は頭から取り合わない。帰りかけて立て看を見ると「ネズミ共の牙城、研究
室館を、実力を以って解放」という文字が見え、解放に頭にきて立て看を蹴っ飛ばす。すると学生に囲まれ
謝罪文を書かされ千円の弁償金をとられおまけに学生に水溜りにつきたおされる。
釈放されてみると、ズボンもコートも泥で汚れていた。傘はもうどこにあるかわからなかった。
泥に汚れ、びしょ濡れになって家に帰ると、妻が
「どうなさったの。」
と驚いて声をかけた。
「学生に水溜りにつき倒された。」
美都子は一瞬、目をみはり、すぐ目をおとした。服を着かえ、風呂場で体を拭いて、机の前にすわると
はじめて、目頭に涙がんじんだ。
学生運動は人騒がせな流行だったが、そういう事態に出くわした大学の先生は色々と大変だったと思う。
吉本のこの後に続く文章がえげつないというか今読んでも面白いのだ。
これは『教えの庭』一連の作品のなかでのクライマックスであり、また、主人公の美談の最たるものである。
ことに学生どものタテカンを、主人公が蹴っとばした場面のところまで読んできて、わたしはおもわずククと
笑いがこみあげてきた。<よう大統領その意気だ>と声をかけたいところである。すべからく大学教授たる
ものは、他のなにものにも頼らず、学生の知にたいしては知を報い、暴にたいしては暴を報い、思想にたいして
は思想を報い、腕力にたいしては腕力を報いるべきものである。そうすれば、現在の大学紛争などは、あらかた
けりがついたはずだ。
そりゃ、全くそのとおりなのだが、わたしはおもわずククと笑いがこみあげてきた。<よう大統領その意気だ>と
声をかけたいところである。というのもあんまり馬鹿にしすぎている。でも面白いが。
学生運動で「大学解体」とか云っていた奴が何年後には大学の教授になっているのだから学生運動なんて
そんな大したものではなく、吉本の云うように研究室になだれ込んで狼藉を働いたら殴ってしまえばいいの
だが、そうも出来ない弱い人間もいる。「収集の論理」で同じように丸山真男が研究室を荒らされて
こんなことはナチスでもしなかったという発言に対して、俺の家に学生が来て書斎を粉砕しようとしたら菜っきり
包丁で撃退してやる。と書くのだから凄い人なのだ。
普通の人は三浦や丸山のような対応しかできないだろうが、本気で俺の書斎荒らしやがったらただじゃおか
ねえ。と云えるのが吉本の凄いところなのだ。
ただ、こういうのは本当に菜っきり包丁で立ち向かえる人間がいうべきで大概の人はこんなことはできない
ので真似しないほうがいい。
そして吉本は考えを巡らしていき、三浦朱門、同世代の第三の新人というのは根っからダメな連中ではないか
と小馬鹿にする。面倒くさいので例文を書かないが、三浦朱門の出世欲がないなどという男は嘘つきだという
断定。吉行淳之介の締切日という圧力がないと作品が書けないという思い上がり、安岡章太郎の自分は臆病
で「時代の変動」を予知して火の見やぐらに登り警鐘を鳴らす人などにはなれない。怖くて登れない腰抜けな
のだ。という開き直りに吉本は真っ向から断罪するのだ。
原稿の締切日があって圧力をくわえられないと、一つも作品を生み出せそうもないと公言するのも、じぶんは
火の見やぐらに上っただけで目がくらんで落っこちそうな臆病もの、腰抜けであると書くのも、わたしとほぼ
同時代の作家の言葉としてよんでみれば、凄まじすぎる自信であると思う。人間は外観から肉体的な兆候に
よって判断されるほど、成熟した内面をもっているわけではない。しかしここでは、外見にくらべて内面的に
はるかに成熟した(成熟を装った)断定が語られている。わたしはじぶんの内面に照らして不可解である。
いい気なもんじゃあないのか?
まあ、要するにえらそうに断定するなと言っているようだ。次に吉本は太宰治の「みみずく通信」を例にあげ
て太宰が<なにをやっても駄目でほかに何もなれないから仕方なしに作家になったのだ>というと学生が
<ぼくもなにをやっても駄目だから作家になる資格がわるわけだ>と返すが、この一言に太宰が君はなにも
やったことも無いくせに、そんな事をいうもんじゃない。と激怒する。太宰の小説を引き合いにするのも良く
わからないが、吉本と吉行たちは同世代だが頭から自分のほうが上だという物言いがすごい。
映画を見たら映画の主人公に感情移入するようにこの文章を読んで吉本になった吉本信者は途端に自分は
何もできもしないくせに安岡章太郎や吉行淳之介を馬鹿にしだすのだから怖ろしい話だ。
吉本が好きな奴ほど人生から弾かれていた。自分は何も得られないから何でも馬鹿にした。
当初、「情況」はまともな論題を取上げていたが最後のほうは読者へのサービスか自分が根っから罵詈雑言
が好きなのか「芸能の論理」では表を作って当時テレビによく出ていた、青島幸男、前田武彦、永六輔、野末
陳平、大橋巨泉、野坂昭如を馬鹿にしている。10表まであって馬鹿さ加減、毒性、嫌ったらしさ等々でランク
付けをしている。当時見ても噴きだしてしまったが今、見てもその馬鹿馬鹿しさは群を抜いている。
ここら辺の文章は吉本の品性のなさを露呈している。でも面白いが。
しかし吉本は偽者を弾劾する「ほんまもの」の迫力があった。
去年の夏のこと、子供をつれて日暮里の諏訪神社のお祭り見物にでかけた。毎年のことである。
昔ながらのテント小屋の見せ物がたっていたが、呼び込みの哥兄ちゃんが、テントの内でマイクを通じて
<この見世物は、劇団「天井桟敷」の寺山修司も推奨した見世物だよ。云々>と怒鳴っていた。わたしは
一瞬、妙なところで、異様なものを聴いたときのようにぎょっとして立ちすくんだ。その前の年もみた掛小屋
のなかの燃えたローソクの火を呑んでみせたり、蛇を鼻から口にとおしたり、生きたままかじってみせたり
するサンカ荒川族に育てられたという女を、呼び込みの文句にした見世物小屋の、うら悲しいペテンに含まれ
た真実と「天井桟敷」や類似のアングラ劇場の<まじめ>な興行に含まれた亜インテリの余裕と、どんな関係
があるんだ?
これを読んだ時、天井桟敷と寺山修司のイカサマが一刀両断にされた気がした。
「情況への発言」は自分の雑誌のものだけに、より過激である。敵は柄谷行人から「現代の眼」の匿名の投稿子
まで徹底的にこきおろしている。こちらは面白いだけであんまり学ぶものはない。とは言うもの相手を罵倒する
時もちゃんと相手の書籍を読んでから文句をつけている、のは流石だしパソコンでコピーするというが出来なか
った時代にわざわざ相手の文章を抜書きするのだから大変であったろう。
今になって考えると、吉本って文壇とは一線を画したところにいたからあれだけボロクソに云えたのかもしれな
い。一応「試行」という自分の著作を発表するメディアを持っていたことが大きい。
二十歳前後の青年が吉本に魅かれるのは何故かと考えるに、一つは日本には珍しい西欧的な厳格な「父性」
を吉本に感じるからだろうし、吉本が二言目には口に出す「生活」fが、具体的には結婚して子供を育てるというこ
とをまだ実践していない青年たちにとっては心の底に畏怖をもって受けとられたと思う。
「ヨシモトは他人の奥さんとったんだぜ」
という話を聞いたとき、それはもの凄い神話的な行為のように思われた。
だが力量の無い者には吉本はあまりいい影響を与えない。
若い頃は誰でも自分が一番になりたがるが、吉本の俺がNo1だという口吻は何をやっても駄目で世の中か
ら外れている人間を碌でもないほうに導いていく。吉本に関係なくもともと駄目な人間なのだろうが。
そんな大して勉強もしない人間にとって、「情況への発言」を読むことは素晴らしい読書体験だろう。
吉本の「情況への発言」だけをまとめて本が出た。編集者の目の付け所はいい。
でも五十を過ぎて読む本ではないと思う。