老いの超え方 | やるせない読書日記

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書評を中心に映画・音楽評・散歩などの身辺雑記
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どうとも感想が書きようがない本である。2006年刊行だが吉本がこれほどひどい状態にある


とは思わなかった。主に糖尿病によるもので手の神経は麻痺しているし、頻尿であり夜はオシメ


をしているし、もうほとんど杖なしでは歩けないし、十分くらいの歩行しか現在では可能ではない。


十年くらい前、谷中を散歩していて三崎坂で団子坂のほうから自転車に乗って下ってきた吉本を


見かけた。自転車はママチャリ、服はY’S(だと思うが)、顔はそこら辺の大工のおやっさんだった。


結構、元気そうだったので表紙の杖をついて曲がった背中で歩いている吉本を見て愕然とした。


向うところ敵のなかった唯我独尊の吉本隆明がこうなるとはおもわなかった。


文中で吉本の大番頭川上春雄も亡くなったことを知った。時代は変わっていくのだ、何の成果もなく。


アンアン論争で埴谷雄高は吉本がコム・デ・ギャルソンの服を着ているのを批判した。埴谷雄高


の批判の論拠も旧態依然としたもので、ベトナム戦争や朝鮮戦争で火事場泥棒のようにボロ儲け


をして資本的蓄積を果たしアジア諸国をないがしろにして発展している日本のぶったくり商品、62、


000円のレーヨンジャケット、29,000円のシャツ、18,000円のカーディガン、35,000円の


靴などを履いて悦に入っているのではない。高度資本主義の走狗になりさがっているではないか。


と云ったものだったがどうもピントがずれている気がする。


まあそんな批判なんかしないでどう見てもあんたにコム・デ・ギャルソンは似合わないしアンアンの


編集者が吉本隆明をモデルに載せるのって結構、おしゃれで知的でしょというくらいのコンセプトしか


なく馬鹿にされているのが分らないのかとでも言ったほうが良かったのだ。


吉本に対するこういう使い方はずっと生きていてこの本もそういうコンセプトの延長にある。


如何にも朝日新聞社の出しそうな本でこのまま無印良品かユニクロのCMに移行してもいいような


装丁と内容の本だ。最初はオシメをしている老人に思想的営為をたよるのは酷ではないかと思ったが、


質問もいわゆる朝日的な進歩的市民主義の匂いプンプンだし、答える吉本も思想とか哲学の領域には


ほど遠い喋り好きの年寄りのヨタ話だ。最後のほうは飛ばし読みだった。


何故だか分らないが吉本は自分も老人なのに一般的に老人問題を話す時「ご老人」という言葉をしきりに


つかっている。奇異な感じするが、自分とは違って「思想的に目覚めていない大衆」を指しているの


だろうか。理解に苦しむ言葉の使い方である。


吉本が病院の個室に入っていて、自分の仕事をやり易いように机やベッドのレイアウトを変えて看護婦


とちょっとした軋轢が生じたことを話すと、すかさずインタビュアーがそれは病院の画一主義ですね。


と太鼓もちをする。であるがそれは間違いだろう。僕も近親が入院した経験があるが、患者は治療する


ために入院するのであって仕事のためではない、病院の個室のレイアウトは配膳や治療、掃除、排泄


の世話のためにあるので吉本が原稿を書くことは機能の他である。


昔、東大全共闘の某氏(名前を忘れてしまった)がダウン症の子供をもったことがあった。生まれてきた


子について進歩的知識人風の文章を書いていたが、その事に吉本が噛みついて、ふざけるな障害者の


こどもが生まれるのはままあることでみんなそういうことを乗り越えて生活しているのだ。と腐してしたの


を憶えている。障害者の親になった人にそこまで云うことねえじゃねえかと思った記憶がある。


吉本が東大全共闘の某氏の災厄をそんなものはみんな耐えていることだと云ったのと同じく、多くの人は


この本を読まなくても老いや病、老境の孤独、死と言った


避けられない苦しみに立ち向かっていけると思う。


書いてあることが「壮快」とか「ゆほびか」の娯楽的健康雑誌とたいして変わらない。


改めて考えてみると、吉本ってサルトルほどの哲学的、文学的仕事をしているのかなと改めて思った。


吉本の著作の半分は駄文ではないか。


それにしても一時代を築いた思想家に対するこういう扱いはどうかと思う。そっとしておいてやればいい


のにという感慨をもった。