例年、20日くらいの梅雨が明けるが今年はまだ。今日も一日曇り空で蒸暑い。
でも梅雨があけてあの下品な暑さに悩まされるのなら今のままがいい。
吉本の「空虚としての主題」読み終わる。といっても馬鹿々しいので全部、まともに読んだわけで
はない。昔読んでこんなもんかねえと思ったが今回も同じ。一応感想を書くときは二度読みしたり
するのだが、さすがに俺もこんなものにそれほどのことはしたくない。1982年刊行で時評なので
あるが、例によって作品はどうでも良く作品を生んだ「状況」「世界」を論じる意図があるらしい。で
頭から作品なんて馬鹿にしている.。だからこんなに不毛な書評もない。
現在書かれている小説の作品は、どういう形で現在のなかへ入ってくるのか。そのために
なにを失いまたなにを失いまた失わないか。そしてわたしたちは現在をどういう形で眼に視
える言葉の風景として捉えられるのか。べつの作者によって毎月繰り出されれる作品を読み
そして鑑賞の言葉をのべ、教師のように採点するふりをしたり、首の座に据わらない程度に
妥協的な評価をくわえたりするといったことにそんなに意味があろうはずがない。わたしが
やろうとしてきたのはこれと逆のことであった。
帯に書いてあった吉本のことばだが何が言いたいのか良く分らない。通常では考えられない
概念が頻出している。小説がどういう形で現在のなかへ入ってくる。そのためには何かを失う
し失わないこともある。眼に視える言葉の風景。とかである。これって一体何なの?
首の座に据わらない程度に妥協的な評価をくわえたりするといったことにそんなに意味があろ
うはずがないこれはどういう意味か、馴れ合いの書評ではありませんよ。ということらしいが、
首の座に据わらない程度に妥協的な評価をくわえるとはどういうことか意味不明。
まともに論じているのは「死霊」くらいで後は作品を生む契機や情況が問題であるようだ。
当然のことながら今では読まれなくなってしまった泡のように消えた小説もある。遠藤周作や
筒井康隆なんて改まってくさしてもなんの意味もない。大体、人のことどうこう言う前に自分の娘につま
らない小説書くのを辞めさせたらいいのにと思う。面倒くさいので引用しないがここでも結局、フロイト
の説を引用していた。たまに吉本いい事云うなと思うともとネタ、フロイトが多い。
バタイユの「エロチシズム」なども今読んでいるが、これもフロイトの影響を受けていて(吉本と違い
独自の理論を発展的に展開しているが)つくづくフロイトは偉大であると思う。
家に帰り、角のハイボールをニ杯飲む。夜は涼しい。