閨房哲学 | やるせない読書日記

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閨房哲学は1795年、サド五十五歳の時に出版された。サドは七十四年の生涯のうち、三十八歳から五十歳まで


の十三年間、六十一歳から七十四歳までの十四年間の二つの拘留が長期に渡り併せて二十七年。その他、二十代


からの不行跡による数々の短期間の拘禁、1793年五十三歳の時に反革命の嫌疑で十ヶ月間の拘留を含めればお


よそ三十年は獄に繋がれていたことになる。サドの作品の大半は匿名で書かれた本作もそうであり、もう一つの特徴


としてサドは若い頃から手遊びで戯曲を書いており、大革命による出獄後劇作家として身を立てようとして幾つか戯曲


も書いた。哲学的論議(そう大したものではないが)は会話だけで成立しており、戯曲風である。澁澤龍彦訳では哲学


的論議だけ抜粋してあり、会話によりその気になった登場人物が行う性描写は省かれている。人間の良心を傷つける


言葉に満ちてはいるが構成は無駄が無く非常に美しい。また澁澤の翻訳の文章も流麗である。であるが、他のサドの


作品と同じように心が穢れるような読後感がある。主要登場人物は四人。サン・タンジュ夫人、確か26歳。年寄りの貴


族と結婚していて一万二千人の男と寝ている。ミルヴェル騎士、20歳。女が好きだが男色もこなす、サン・タンジュ夫人


は姉だが近親相姦の関係。ウージェニー15歳。生来的に淫蕩で悪徳の気質があり、いろいろと悪徳の先達から薫陶を受け


る。ドルマンセ36歳、腹の底まで腐敗した人間であり、危険きわまりな男。三人の背徳漢の中で一番の理論家。とんで


もない淫蕩・情欲の理論をべらべら喋る。サドの文学の典型的人物。ミスティヴァル夫人、ウージェニーの母。最後に娘に


虐待を受ける。サドの小説のなかでは割合と残虐行為の場面が少ない。佐藤晴夫の全訳を読むと澁澤によってカットされた


場面は露悪的で滑稽感さえ漂う上質のポルノという感がある。翻訳者によって作品の様相もかわるのだろうか。


話はいつものように、ドルマンセがウージェニー相手にまずキリスト教をボロクソにこき下ろし次には得々と自然の本質は


悪であり、破壊でありエゴイズムである。我々のような背徳の士が存在するのも自然の命ずるところであり我々は恣意の


ままに情欲を行使しなくてはならない。と、いつもの様に身勝手で現実の世界では絶対に通らない理屈をこねまわす。


 (略)それは、残酷とは悪徳とは縁遠いものであって、自然がぼくらの内部に刻みつけた最初の感情である、というこ


  とだ。子供は分別のつく年齢に達するよりもはるか以前に、玩具をこわし、乳母の乳首を噛み愛玩用の小鳥を絞め


  殺す。残虐性は動物にも刻印されている。このことはすでに言ったと思うが、自然の法則は人間におけるよりも動物


  において、いっそうはっきり読み取れるのだ。また、文明人よりもいっそう自然に近い野蛮人のもとに残虐性は明らかに


  認められる。


と云ったお話が延々と続くのでまともな人間は腹立たしくなってくるが、近親相姦に関する意見などフロイトに先行している


と言えなくもない。サドにとって書くことはヴォーボワールの云う様に己の先天的な変態(単にサディズムだけではなくマゾ


ヒズム、男色、糞尿愛好もある複合的な性癖をサドは持っていた)に体系を持たせて他の人間に承認させる行為だといえる。


でまあ、僕達は犯罪者の身勝手な理屈に付き合わされることになるが、サドの文学が単なるエロ小説の枠を超えて後世ま


で人間の良心を震撼せしめるのはその論理の徹底性ではないか。サドはマルクス並みの読書家であったと言われるが、確


かに男色などに関する全世界の地域に渡る資料の蒐集などに力量をしめしている。


後世では確かに文学的価値を見出されたサドであるが、書かれた当時は唯のポルノ(今もそうかもしれないが)であった事


は否めない。今でも昔でもこんな小説は実名で出せるわけがなく「悪徳の栄え」「ジュスティーヌ」は匿名で書かれ、本作も


「ジュスティーヌの作者の遺作」と銘うたれており、困窮している生活の糊口をしのぐ手段であったといえるのでは。同年に


は実名で比較的まともな書簡体小説「アリーヌとヴァクール」を出版している。


このお話の最後にミスティバル夫人というまだ32歳の美徳の夫人がドルマンセを筆頭とする悪党に陵辱を受ける。これが


無茶苦茶にひどくて、残虐を通り越して滑稽でもある。一番酷いのが梅毒持ちの下男に後も前も犯されてさらに娘から


毒汁がでないように針で性器を縫合されてしまうという虐待である。普通の人間には考えられないことだがサドには潜在


的な母性憎悪があり、作品の中で母性=美徳は常に虐待される公式になっている。サドの両親、特に母親は愛情がなか


ったとされるが、異常性格の成立に関して正確な因果関係を見つけるのは難しい。どちらにしてもまともな品性でない事


だけは確かであるが。


この小説は変わっていて均整がとれた構成の中に突然、「フランス人よ!共和主義者たらんとせばいま一息だ」という


政治的パンフレットが挿入される。これは現実のフランス革命をコケにするだけの悪意と論理の徹底性に貫かれている。


書いてあることはサドの小説中の弁舌と同じで宗教はいらない、近親相姦、男色が何故悪いのだ。古今東西の例証を見


れば男色も近親相姦も全て自然の命ずることだ。女性のための売春宿を作り、女も大いに愉しむべきだ。生まれた子供


は共和国のものとする。盗みも殺人も悪くない。殺人はただ人間を別の物質に変えるだけの行為だ。であるが死刑は無駄


だ。死刑は抑止力にはならない。等々である。何に良く似ているかと云えば、いい歳をしたニート人生に対する怨嗟をこめて


ブログに悪態をついている姿である。ただのニートと違うのはとてもよく勉強しているところだろう。殺人の件は文中一番の哲


学的思弁に裏打ちされているように僕には思える。佐藤晴夫訳のほうが分りやすいので佐藤訳を引用したい。


  更に論議を進めよう。自然界が生成のために用いる材料はなんなのだろうか?この世に生まれて来るさまざまな


  存在は何から構成されているのだろうか?それらを形作っている、土、水、火、空気の四元素は先に破壊された存


  在から生じたものではないだろうか?もし、すべての固体が永遠の命を与えられているのならば、自然界にとって


  新しい個体を作り出すことは不可能なのではなかろうか?だから、自然界が存在の永久性を否定しているのなら


  ば、固体の破壊は自然の法則の一つとなるわけである。


  ところで、もし自然界にとって破壊というものが極めて有用であって、どうしても破壊なしに済まされないのであり、死


  の用意している破壊の蓄えの中から材料を取り出せなければ、自然は何物も造りだすことができないのだとすれば


  我々が死に結びつけている消滅という観念はもはやどこにもありえないのだ。我々が生物の死と名付けている観念


  は実は本当の死ではなく、今日のすべての啓蒙学者が自然界の第一法則の一つとして認めている単なる物質の


  変化というこになるのだ。(略)


  自然界が造りだすさまざまな生産物の形態を変化させるという行為は決して自然界に損害を与えるものではなく、


  自然界にとって役立っていることになるのだ。何故なら、諸君はそうした行為によって自然界の再生産の基礎とな


  る材料を提供しているからであり、もし諸君が破壊しなければ、自然の再生産の仕事は実行不可能となってしまう


  かあrである。それでも、ある人は、ああ、破壊などという厄介なことは自然界に任せておけばいいではないかと言う


  かもしれない。確かに、自然界に任せておけばいいのだ。しかし、人間が人殺しに夢中になっているときは、人間は


  自然界の衝動に従っているにすぎないのだ。人間に人殺しを勧めているのは自然界であって、同胞を破壊する人間


  は自然界が自らの手で送る疫病や飢饉のようなものであって、自然界は自分の仕事に絶対必要な破壊という基礎


  的な力を早急に手にいれるためあらゆる手段を用いているのだ。


と言う事らしい。これだけ考えられるのだが人間・自然=悪、を見据え存在の変革を目指そうとはせず、女を鞭打ったり拷問を


加えたりスカトロに勤しんだり近親相姦で子供を殖やしその子供と姦通するなどいう愚劣な妄想を書き連ねるのである。確か


に澁澤の言うようにサドは根源的な「永久革命者」ではあるが、だからやりたいほうだいやるんだという犯罪者的言い訳に落ち


つくのである。埴谷雄高のように愚劣な存在を少しでも変革しようという意志は存在しない。


もっともただのポルノに下らない屁理屈をつけただけではないかと佐藤晴夫訳のサドを読むと思ったりする。(引用はあんまり


下品なのでしませんが)澁澤は70年以前の今のように陰毛さえ刊行物で出してはいけない時代で過度な性描写は避け、サド


の哲学的な面を理解させるために過度な性描写の部分は割愛し僕達の想像に任せた。佐藤晴夫の全訳はあからさまで陋劣


であるが正直に告白すると僕はポルグラフィクな場面は非常に面白かった。であるがこういう本は若いうちは読むものではな


いと思った。こんな本を若いうちから読むと性格がゆがむ。