「サド侯爵の生涯」は昭和三十九年にサド選集の別巻として出版された。澁澤龍彦三十五歳である。
同じ全集の第五巻「サド侯爵の生涯」の解題では松山俊太郎は「要領よくまとめた正確で読みやすい
サド伝としては、今日でも世界中に本書を凌駕するものは存在しないであろう」としながら「欠点を言えば
澁澤龍彦独自の見識とリレーその他の貢献を弁別するのがしばしば容易でないことである」「そのため日
本では最善のサド伝であっても、フランス語をはじめとする外国語に翻訳されれば、剽窃のそしりを受ける
惧れが生じるであろう」と書いている。そういう公平無私な解題担当者の言葉なだけに、説得力があった。
【「澁澤龍彦からの手紙」出口裕之】
確かに澁澤の創見はほとんどない。ジルベール・レリーやボーヴォーワールの論考を無断で借用している処
が多くある。まあそれは澁澤龍彦が芸術の鑑賞にはたけているが自分自らは創造する人間ではないという特
徴に起因するのだろう。何回か読んだが頁数も多く自分自身の解読力のなさも思い知らされた。大体、サドの
生涯の概要は松岡正剛の「千夜千冊」などにもちゃんと書いてあるのでそれを読んでいただくとして(能力がな
いととてもまとめきれない)管見ではありますがサドの女性関係について思うところなど。
ドナティアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド侯爵(1740-1814)の変態性欲形成の正確な行程は誰も指摘す
ることはできないが、家庭環境としては両親ともに愛情が薄くとくに母親はまったく一人息子に愛情を示さなかっ
たと言われている。
サドの小説のメカニズムに徹底した母性憎悪が挙げられる。端的な例は「閨房哲学」であり最後に美徳の母親
は実の娘によって針と糸で性器を縫合されてしまう。こんな事を考えるのはよっぽどの大馬鹿もので七十四年の
生涯のうち三十八から五十歳までの十三年間と六十歳から七十四歳までの十四年間の合計二十七年、その他
の短い拘束を入れれば三十年も獄に繋がれていた。人間の生存にとって一番大事な母性の迫害の衝動がサド
にはあるのだから僕達にとって彼の小説は不快で陋劣極まりないものとして存在する。
分析的心理学は、一般につぎのことを、よくよく確認された、異論の余地のない事実と認めている。大多数の
人間の最初の葛藤を形成するのは父親への憎悪である、ということだ。「いくつかの例外をも考慮に入れる
のは興味あることだろう。つまり別の人々においては、逆方向を指す葛藤が形をとるのだ....」かくて、サド
においては、「その生涯の主なできごとが、母親の憎悪という、より稀で一般的にはそれほど顕著な形をとら
ないコンプレックスをことさら助長したと思われるので、われわれとしてはその傷跡を絶えず彼の作品中に
認知しうるし、そのためにこの憎悪をサドの観念論のテーマと見做しうるほどである」。サドの心的形成を
「母親が幼児サドに味わわせたと考えられるある失望」にまで遡らせるべきなのであろうか?
【クロソフスキー「わが隣人サド」】
普通はエディプスコンプレクスという母親への固着と父親憎悪という衝動が男には形成されるが、サドの場合は
母親への憎悪というコンプレクスが認められるとしている。まあ、難しい理論を持ち出さなくても僕達の実体験で
両親、とくに母親の愛情に疎かった人間に健全な精神の育成が難しいというのはわかることだ。
サド夫人のルネ・ペラルジーはサドより一つ下で二十二歳でサドと結婚して獄からサドが出たとき愛想をつかして
別離(カソリックなので離婚はできなかった)したが、それまでの二十八年間、サドに献身的に仕えた。その間、サ
ドはありとあらゆる放蕩を繰り返し官吏に捕まり釈放後また事件を起しルネの妹まで手を出し、ルネは少女達を
集めた乱交パーティにまで加わり、バスチーユの牢屋に入れらてからは差し入れに日参し、サドの釈放運動にも
せいを出した。サドが怪物ならルネは「美徳の怪物」とでもいえるような人格といえる。これは犯罪者的気質の人間
やいい歳をしたニートなどにも見られるが、幼児期に享受できなかった母性の穴埋めをルネに求めたように思える。
そしてある種の母性的行為の好きな女は本来の自分の仕事を見つけたように馬鹿男の我がままに喜々として従う
のではないだろうか。そうとでも考えないと二十八年もこんな男に仕えた女の心情がよくわからない。
人間の愛情の性向には機械のようなところがあり、同じようなことを繰り返す。五十歳になり零落したサドであるがそ
れでも獄から出所してすぐ に三十歳の子連れの女優ケネー夫人通称「深情け」を手なづけ七十四歳で精神
病院で死ぬまで生活を伴にしている。ルネ夫人と同じような母性的な女を見つけたのである。六十一歳でサドは「新
ジュスティーヌ」の作者としてつかまり六十三歳で有名なシャラントン精神病院に移送されるが、そのとき隣室に
「深情け」も生活していた。今では考えられないことではあるが。さらに六十八歳で五十六歳下の精神病院の雑役婦
の十二歳の娘と知り合い死の晩年、七十三歳から十六歳になった娘とむろん金銭の授受はあったろうがケネー夫人
の目を盗んで関係をもった。馬鹿は死ななきゃ直らないのである。
その他の感想としては、十八世紀のフランスことをいくら澁澤でもはっきりわかるはずもなく「らしい」「であったろう」など
という言葉遣いが多かった、まあこれはしょうがないことだろう。頁数が多いが澁澤らしい分り易い文章で読みやすかった
特にサドが捕まって落ちぶれ果てて精神病院で死ぬ辺りは僕のような卑小な人間には面白くて仕方がなかった。
サドの生涯の概略は松岡正剛が博学に裏付けられた見事な筆致で書いています