王女メディア | やるせない読書日記

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「ソドムの市」を撮り終えてパゾリーニは非業の死を遂げた。あの映画がパゾリーニの到達点では

 

ないだろう。パゾリーニのキャパシティは大きくまた別の展開を示したのではないか。パゾリーニの

 

キーワードのひとつにカソリック、キリスト(もしくはヨーロッパ的)があるが、それらが作品の主題を

 

なしているものとしては、1961 「アッカトーネ」、1962「マンマ・ローマ」、1963「リコッタ」、1964

 

「奇跡の丘」、1965「大きな鳥と小さな鳥」、1968「テオレマ」1969「豚小屋」、1971「デカメロン」、

 

1972「カンタベリー物語」、1975「ソドムの市」を挙げられる。1964年の「奇跡の丘」に結実される

 

新約聖書的世界は「テオレマ」の旧約聖書のイメージに変容し、荒野に出現したネガティブなキリストを

 

描いた「豚小屋」、「デカメロン」「カンタベリー物語」のヨーロッパ中世を辿り、ヨーロッパのアンチテーゼと

 

しての「アラビアンナイト」を撮り、キリスト教文化の鬼っ子サド原作の「ソドムの市」に行き着く。このキリ

 

スト、カソリックの精神風土以外の作品として意図的に脱ヨーロッパを計ったような「アポロンの地獄」「王女メ

 

ディア」「アラビアンナイト」がある。「アラビアンナイト」は一度しか観たことがなくほとんど忘れてしまっている

 

ので語る資格がないが、「アポロンの地獄」は最初と最後が現代のイタリアであり、中間の劇が既成のギリシ

 

ャ悲劇のイメージを覆した土俗的、アジア・アフリカ的な意匠をまとって演じられ、その土俗的、アジア・アフリカ

 

のイメージが理性的なものではない意識下の心的エネルギーを表しているように思えた。

 

しかし「王女メディア」では脱ヨーロッパの志向があまり意味のないものになってしまった気がする。

 

どうみてもありえないような奇矯な衣装とギリシア劇なのにトルコのカッパドキアでのロケーションであるとかど

 

うも失敗のように思えるのだが。パゾリーニの映画はどんなものでも意図がはっきりしているがこの映画で一体、

 

二十世紀最高の歌姫マリア・カラスを使って何を訴えたかった僕にはよく分らなかった。観客は最高のマリア・カ

 

ラスを観たければオペラの「メディア」を見ればいいのだが。(もっともこの頃、カラスは歌えなくなっていた)カラス

 

はゲイの人に人気があったが、パゾリーニがそんなことでカラスを使ったようには思えないが。

 

この映画は一部、ストーリーの省略があり良く分からない箇所がある。パゾリーニの映画はイメージだけを感得し

 

ていけばどうにかなるという見方もあるが。この映画は多くはエウリピディスの「メディア」に典拠しているが、ギリシア

 

悲劇の「メディア」はギリシャ神話の金毛毛皮とアルゴ船遠征などの言い伝えを元にしている。本によって細部が異

 

なるが、要約するとだいたいこんな話だ。

 

 

  イオコルスの王アイソンは弟のペリアスに王位を奪われ息子のイアソン共々ペリオン山に追放される。

 

  アイソンは賢人であるケンタウロスのケイロンに育てられた。青年になりアイソンはイコルスに戻り、王位

 

  を父に返還することを叔父であるペリアスに懇請する。しかし腹黒い叔父の口車に乗せられてコルキスに

 

  ある金毛羊皮を取って来るはめになる。金毛の羊皮と引き換えに王座を明け渡す約束をかわす。イアソンは

 

  船大工のアルゴスに五十人乗りの船を造らせ四十九人の勇者を集める。ヘラクレス、オリペウス、テセウス等々

 

  である。船(アルゴ号)は様々な島をめぐり神話的な冒険譚が続き、(これはどうでもいいので割愛する)コルキス

 

  に到着する。

 

  金毛羊皮はコルキスのアレスの森に安置されている。コルキス王アイエステスにはカルキオペ、メディア二人

 

 

  の娘がいた。河を遡ってアルゴ号が到着する。イアソンは金毛の羊皮を取りに来た旨を話す。アイエテス王は

 

  イアソンに難題を与えこれを叶えたら羊皮を渡す約束をする。(この内容も割愛)この難問はイアソンを好きに

 

  なったメディアの助けによってクリアーされる。約束は果たされるが王は羊皮を渡すのを明日にしてくれと頼む。

 

  船に引き上げるとメディアがやってきて、メディアの力添えが発覚し王は襲撃の準備をしている。羊皮を奪うの

 

  なら自分が弟と一緒に手伝う意思を伝える。三人はアレスの森に行きメディアの魔法で首尾よく金毛の羊皮を

 

  手に入れる。イアソンはメディアと結婚の約束をして、弟も一緒にアルゴ船に乗りこむ。王も船を出してアルゴ

 

  船を追跡する。あわや追いつかれようとする時、メディアは弟を殺し体をバラバラにして海に捨てた。アイエス

 

  王が息子の死体を拾っているうちにアルゴ船は逃げおおせることができた。長い年月を経てイアソンはイコルス

 

  の国へ辿りつく、父アイソンは既に年老いていた。イコルスの王ペリアスに金毛の毛皮を渡し約束の王位返還

 

  を迫るが王は約束を反故にする。メディアは夫を苦しめたペリアスへの復讐を意図する。

 

  イアソンの父アイソンがあまりに老け込んでしまったのをメディアは魔法を使って若返らす。ペリアスの娘たち

 

 

  がペリアスのために若返りの方法を教えてもらうがメディアは完全には教えず。ペリアスは死んでしまう。イオ

 

  コルスの人々はメディアとイアソンを追放する。イアソンの胸にメディアの残酷さに対する嫌悪感が派生する。

 

  コリントの国に来たとき、そこの王女グラウケが好きになり結婚の約束をする。メディアにそのことが知れ、メ

 

  ディアはグラウケに美しいが毒にひたしてある肌着を送り、王女は苦しんでしまう。メディアは自分とイアソンの

 

   子供を二人、イアソンの目の前で殺し、コリントの王宮に火をつけると、翼のある戦車で去って行った。

 

  その後、メディアはアテナイの王と結婚し、その後コルキスに帰り、父の王座を奪った叔父を殺し、不死の身

  

  になった。

 

神話なので無論著作権などなくて何千年もの間に幾通りもの解釈や話の異同があるが、おおよそ話しはこのようなも

 

のである。エウリピデス(480.BC~406.BC)の「メディア」(431.BC)はイオコルスに追放されたメディアとイアソン

 

 

を題材にとったもので、エウリピデスはメディアを薄情な夫イアソンに捨てられる女の悲劇とその復讐というドラマに

 

 

仕立てている。「アルゴ船遠征」の話などなく、イオルコスの王にメディアが追放を宣告されるところから始まる。

 

 

映画でも使用されるがメディアは蕃地(ばんち、未開地)の女という言い方をされている。魔法を使うということも合理

 

 

的で先進的な自分たちとは違う遅れた人種と蔑む意識がある。

 

さて、パゾリーニの「王女メディア」であるが、もちろんハリウッド映画のようなスペクタルを描くわけがない。メディアの

 

 

悲劇には不必要と思われるアルゴ船遠征を第一部にしたのもメディアの土着的な精神を描きたかったからだろう。

 

 

第一部はカッパドキアで未開地を示し、第二部はイタリアのピサの斜塔近くの遺跡でロケをして合理的な世界を現して

 

 

いるのだろうが、あまりうまくいっているとは思えない。どうせならイコルスを現代のイタリアにすれば良かったと思うが

 

 

「アポロンの地獄」で使ったギミックなのでさすがに二度はやらないのだろう。叔父ペリアスの殺害も省かれているし、

 

 

イオコルスに追放になった経緯もない(ここが一番、神話や戯曲を知らない者にはわかりにくい)何故か王女グラウケ

 

 

が殺害されるシーンは二回ある。一度はメディアの想像裡のことなのだろうか。昔、文芸座で観たときケンタウロスが

 

 

出てすごい映像だと感心したが今回見るとチャチな感じがする。カメラワークもいつものぶった切るような映像の連続

 

 

で疲れる。とくに風景を手持ちで撮るため揺れている画面とか、真正面からの顔のアップや、狭いところや平坦ではない

 

 

場所で撮影しているためにちゃんとした構図を作りきれないところなどである。だがマリア・カラスは素晴らしいとかいい

 

 

ようがない。我が子を殺害する前に入浴させる場面とか(日本の謡曲が流れるが沈鬱な悲哀を表している)、王女とし

 

 

ての威厳、最後の子供を殺して宮殿に火をつけたあとの鬼気せまる表情など、シルヴァーナ・マンガーノが素材として

 

 

パゾリーニの映画に良く映えるのとは異なり、パゾリーニが役者にはほとんど要求しない演技の力が際立っている。

 

 

マリア・カラスの使い方としては勿体無い。

 

 

若い頃、文芸座の擦り切れたフィルムでギリシャ悲劇も知らないでこの「王女メディア」を見たとき、月が昇るシー

 

 

ンがあったが通常の映画の文法とまるで異なる現実の月のように撮影していた。こんな撮り方をした映画はそれま

 

 

でなかったので驚いた記憶がある。

 

 

しかし繰り返せばいつも映画をつくる動機が明確なパゾリーニではあるが、この映画に限って伝えたいものがいま一

 

 

つ僕にはわからなかった。