前回、このところの小説の「連続試合安打」について、「三浦哲郎の『忍ぶ川』以来」と書いたが、その前に例の水上勉の『はなれごぜおりん』があったんだった。
つまり図書館の「み」の棚で水上勉さんを見つけて『おりん』を借り、2週後にそれを返した足でまた「み」の棚に向かい、「もう少し水上さんを読もうかしら」と探しているうちに、ご近所の三浦哲郎さんをお見掛けし、「あらちょいと、こっちもイイ男じゃないさ」と心変わりして『忍ぶ川』を借りた・・・とそんな流れだったのではないか。
はっきり記憶してるわけではないが、僕の行動パターンはそんなところなのだろう。
なにせ三浦哲郎さんの次に借りたのが三浦綾子さんなのだから。
行き当たりばったり三浦綾子かな naoto
素晴らしい小説。
深く感銘を受けた。
子供の頃から母の蔵書に三浦綾子を何冊か見た覚えはある。
三浦さんがクリスチャンであることや北海道出身であることを知っていたのは、母からの聞き覚えだったかもしれない。
そしてその2つは三浦さんと母に共通するプロフィールでもあった。
三浦さんの自伝的小説であるこの『道ありき』に引き込まれつつ、もしかすると僕はそこに母を重ねていたのかもしれない。
結核で青春時代を長く病床で暮らした三浦さんと僕の母に共通する点は決して多くない。
闘病の中で信仰に目覚めた三浦さんと、教会に生まれた母とでは、「信徒」として辿った道も随分違うだろう。
しかし僕はこの小説を読みながら、今思えばページの向こうに母の姿を透かし見ていた気がする。
この文章を書いているうちに、はじめてそれに気づいた。
そしてもう一歩想像を進めるならば、半世紀前、もしかすると母は三浦小説に自分を重ねながら読んでいたのかもしれない。
そんなことも、今思いついた。
大型連休とはいうものの、前半は仕事になった。
そういえば花屋のしもぶーもこの時期は休めないと言っていた。
「母の日」は花屋が1年で一番忙しい。
僕も今年は久しぶりに花でも贈ろうかしら。