モーリス <HDニューマスター版> | 今日もこむらがえり - 本と映画とお楽しみの記録 -

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備忘録としての読書日記。主に小説がメインです。その他、見た映画や美術展に関するメモなど。

1987年 イギリス
原題: Maurice
監督: ジェームズ・アイヴォリー
原作: E.M.フォースター 『モーリス』
 

実は去年、どうしても欲しくて暫く悩んだ後に若干プレミアついた中古DVDを買っておりました、私。密かに文芸映画祭りを企てているので、その時に観るのを楽しみに(あ、2月に頓挫したアジア映画祭りもまだ再開できていないのですが)・・・と思っていたら4K再上映があったので先日スクリーンで「モーリス 4K版」を観たわけですが。
 
その時の記事にブロ友ZELDAさんから気になるコメントも頂き、これはやはり一度原作読んでみないとな!と思ったのですが、大きな本屋さんでもネットでもまぁ、絶版、在庫なし!かろうじて図書館検索で1冊だけ発見したので、予約して順番待ちのところですが、その間にDVDでもう一回、映画を観なおしてみました(*‘ω‘ *)。
 
昔の記憶の中ではモーリス視点の物語が物語、先日の4K再上映ではモーリスを台風の目として俯瞰した物語として解釈しましたが、今回はヒュー様演じるクライヴの視点を気にしながら鑑賞してみました。クライヴの性癖は、青春時代の一時的な揺れや惑いの類ではなく芯からの同性愛者であり、モーリスのこともずっと変わらず熱烈に愛し続けているけれども社会的な立場や体面を失うのが恐ろしくて必死に「たいしたことじゃなかった」と思い込もうとする、そんな弱虫根性に自分でも内心倦んでいる・・・という視点で。
 

 
基本的には前回の鑑賞のおさらいなので、あらすじなんかは宜しければ前回の記事↑を。今回は、前回書きそびれたことや、別の視点で感じたことを徒然と追記しつつ、テレビ画面の写メですが写真集代わりにお楽しみいただければと思います(´ー`)。
 
 
アイヴォリー監督の映画は、とにかく始まりが文学的、絵画的で印象的に美しいです。音楽も素晴らしい。小学校を卒業して上の学校に進むタイミングで、第二次性徴を迎える年頃のモーリス (ジェームズ・ウィルビー) に父親代わりに「性」について教える教師との会話のシーン。後々までずっと記憶に残って、リフレインしては感慨にふけらされます。伏線効果バッチリ。
 
身体が大人になることや性の衝動、結婚の意味もまだ何も実感として理解できない幼いモーリスが「僕は結婚しません」というのを優しく笑って受け流し、「じゃあこうしよう。10年後に、君と君の奥方を我が家での食事に招待しよう。どうかね?」と話す台詞も後を引きます。結局この約束は果たされませんが・・・後にロンドンで偶然この教師と再会するシーンは、色々な感慨が去来します。
 
 
前回の鑑賞で、モーリスを自分は自覚なく、でも周囲にはホモセクシャルなフェロモンを常に放出している台風の目のような存在ではないかと思ったのですが、そういえばクライヴ(ヒュー・グラント)と知り合うきっかけになったのはリズリー(マーク・タンディー)がモーリスに目をつけて話しかけ、自分の寮へ誘ったから。なんとなく、この↑教授を囲んでの懇親会?の時のモーリスの発言が気に入ったのかと理解していましたが、よく考えたらそれだけではなく、むしろモーリスが発する何かを、リズリーが敏感に感じ取ったのだという気がしてきます。
 
 
リズリーの部屋を訪れるのに、身だしなみや挨拶の練習にドギマギしていたモーリスですが、クライヴに出会ってからは彼の魅力にどんどん惹きこまれていきます。ケンブリッジのキャンパス内で3人でボート遊びをしながら、ギリシア時代の性愛について議論を交わすシーン。クライヴがギリシアの「美」を定義し賛美する台詞が象徴的です。
 
男性の肉体美への憧れ、精神の美、人間の知識欲の美。
それがギリシャ社会の柱だったんだ。
 
ギリシア彫刻にみられる肉体美を、崇高なものであると崇め、肉欲的な情欲の対象とは区別するクライヴ。同性愛にもプラトニック性、高潔さを求めた彼の精神構成の一端が垣間見られるシーンです。そして、この場面でも、モーリスはそのクライヴの精神を理解できません。そうはいっても、理想だけじゃなく俗欲だって大切じゃない?とぼんやり答えます。そしてそんなモーリスに「だよな、そう思うよな!」と嬉しそうなリズリー。繰り返し観ていると、そしてあらかたのあらすじと感想をまとめた後だと、細かい枝葉部分もゆっくり鑑賞できる&追記できていいですね。
 
 
では、ヒュー様好きな私の独りよがり(笑)、クライヴの恋に憂う様々な表情のコレクション~(笑)。礼拝堂の前で、かすかな緊張とトキメキを胸にモーリスが出てくるのを待つクライヴ。まだカミングアウト前なので、モーリスと会ってる間、取りあえず普通の親しい友人同士、として楽し気に振る舞いますが内心では心臓トックントックン。
 
 
皆がクリケット(か、ポロかはたまたテニス?)の試合に夢中になっている間、クラブハウスで2人きりの時間。お互い休暇で帰省していた後なので久しぶりの再会です。まったりした親密な空気、思いがけないモーリスの甘い愛撫(クライヴの髪の毛を触る)にウットリ、ドキドキ。この後感情が高ぶって思わず抱擁してしまいますが、試合が終わって戻ってくる学生たちの気配に慌てて離れます。
 
 
勇気を持って、愛の告白をするクライヴ。彼としては色々、ポジティブな”証拠”のカケラを十分蒐集した後です。それとなく思いを匂わすように、休暇前に本も貸していました(何の本だったんだろう?原作読めばタイトル出てくるかしらん)。ところが残念。恋は盲目。モーリスへの愛と、希望に目がくらんでいたクライヴには自分が恋する相手が自分ほどロマンチックな情緒性を持ち合わせていないこと、単細胞のニブチンだということが見えていなかったのか、忘れていたのか。
 
 
もしかして、いやきっとモーリスも自分と同じ気持ちでいてくれるはず・・・と淡い期待をしていたのに"What a rubbish!!(なに馬鹿げたことを!)"と一蹴されて一瞬で希望が砕け、哀しみと後悔に曇る表情。
 
ちなみにこの後も何度も登場してくる「rubbish」という単語。「ゴミ」「廃棄物」という意味から転じて、「馬鹿々々しい」「愚かなこと」「くだらない」という意味でも使われます。イギリス人がよく使う単語としてむかーしむかーーーーし習ったのを思い出しました。米語ではあまり使われない表現。アメリカが舞台だったらお馴染の「F●●K!」とか「S●●T!」とかが出てくるのでしょうか。
 
 
つづいてはモーリスの表情を追ってみましょう。自然な流れから気が付いたら抱擁していたシーン。え・・・これって何だろう?何が起こっているのか頭の理解が追い付かずボーゼン。でも、心と身体は不思議な幸福感に酔いしれます。
 
 
客観的にみたら、クライヴに対して散々コナかけておいて・・・まさかの咄嗟の拒絶反応。何馬鹿なこといってんだよ!俺はヘンタイじゃないぞ!でも言われてみて初めて、そして哀し気な表情で去っていくクライヴを見て、激しく動揺。思わせぶりにしておいて、いざとなったら拒絶して、それなのに「どうして僕の心をかき乱すんだ!」と怒りながら乗り込んでくる男、モーリス。この単純さ幼さが魅力のうちとはいえ、クライヴも面倒な男に惚れちゃったものです^^;。
 
とはいえ、ひどく傷つき一旦閉じたクライヴの心の扉はそう簡単に再び開きません。するとどうするか。悶々しすぎたモーリスはクライヴに夜這いをかけて、「愛してる!」の一方的なシャワー。常に衝動的で一方的で思慮の足りないモーリスの行動。それが面倒なほどイジイジした資質のクライヴにはたまらない魅力。わかる気がします。
 
 
晴れて相思相愛、愛する人がいて、愛されていて、2人きりで過ごす夢のような幸福な時間。そうとなったら心も身体もガッツリ、クライヴの愛をむさぼりたいモーリスでしたが、まさかの寸止め。何分、クライヴのいう”高尚性”は理解できないモーリス。嫌がることを無理強いするつもりもないですが、複雑な気分で別の意味で呆然。これが愛なの?これが美しいの?高尚ってことなの?肉体の結びつきを求めてはいけないの?それに自分は耐えられるのだろうか?
 
 
リズリーの逮捕と判決の一連のスキャンダルは、クライヴにとってとてつもない衝撃。食事中に気を失って寝込むほど。どんだけ臆病なのか^^;。そして逃げるように一人でギリシアへ。かつてそこに理想の美が栄えていたはずの廃墟をひとりで彷徨い歩き、モーリスの手紙を何度も読むクライヴの心境はどんな風だったのでしょうか。とにもかくにも、この旅で、”普通の人”としてあるべき自分を一生演じ続ける決意をしたクライヴ。
 
 
お茶目なヒュー様のサービスショット(笑)。
ま、この後モーリスとの修羅場が待ってるんですけどね・・・^^;。
ここから先のクライヴは、鉄仮面。学生時代にまとっていた魅力の全てを脱ぎ捨てて、何の面白味もない俗世的でスノッブな上流階級の人間になりきります。
 
 
婚約者と一緒に「花婿の付添人」を電話で屈託なく頼んでみせたり。ギリシア旅行から戻ってからのクライヴは、その本音や心の動きをほとんど表に見せません。心から女性へ目覚めたとは思えないのですが、それでもどの程度、モーリスへの感情が残っているのか、屈託があるのか・・・は不透明。
 
 
フェロモン・タイフーンなモーリス。列車で同じコンパーメントに乗り合わせた見知らぬじーさんまで吸い寄せてしまいます。自分が愛しているのは、クライヴであって、「男」ではないはず。でもそのクライヴの愛をもう得られない・・・なのに望んでもいない欲望を自分が引き寄せてしまうのは、自分に何か問題があるのか?分りやすい病気の兆候が表れているのかも?さすがのモーリスも不安になります。
 
 
思いつめたモーリスは亡き父の友人で子供の頃から家族ぐるみの付き合いがあるバリー医師(デンホルム・エリオット)の元に駆け込み助けを求めますが、診察した医師は何も問題ないと太鼓判をおすばかりで、モーリスの悩みを理解しようとはしてくれませんでした。もはや孤立無援の孤独に陥ったモーリス。可哀想に・・・(/_;)。ちなみに役柄のバリー医師はまっこうから同性愛を否定しますが、演じるデンホルム・エリオットは当時からバイセクシャルであることを公表していて、1992年にエイズで亡くなったそうです。
 
 
後にようやく救いの可能性を感じられるラスカー・ジョーンズ(ベン・キングズレー)氏に出会えますが、治療の効果を得られる前に新しい嵐にのみこまれることになるモーリス。このバリー医師の佇まいもどことなくミステリアスで印象的でした。デンホルム・エリオットよりこちらの方の方がゲイの雰囲気醸し出してらっしゃいます。(ということで、初回投稿時にバリー医師とジョーンズ氏を混乱してしまい失礼しました)
 
 
心の隙に入り込んできた意外な愛、情欲、恋人。羨望、猜疑心、渇望、迷い、後悔、希望、、、様々な感情が互いに次から次へとと巻き起こり、もつれあったまま渦へ呑みこまれていきます。この映画の後のこの2人は、どうなったんでしょうね・・・。
 
 
ハシゴも、この映画で印象的な使われ方をしていたアイテムのひとつ。大学の寮でモーリスがクライヴの部屋に、そしてクライヴの留守中に スカダー(ルパート・グレイヴス)がモーリスの部屋に夜這いをかけた時に利用したのも、ハシゴ。執事の「おや、やっと梯子を外したようですな。そろそろ外していい頃合いです」の台詞も何やら意味深な解釈を重ねたくなります。
 
 
意味深といえばこの夫婦の会話や目線ひとつひとつもまた意味深。決して男女としては、表面通りの仲睦まじい夫婦ではない、それぞれに屈託を抱えているんだろうな、という気配満点。恐らくアン(フィービー・ニコルズ)は、出会った頃は心からクライヴに夢中で、婚約できて夢見心地だったことでしょう。クライヴも、アンを常に尊重しているし、ある種の愛情は間違いなく抱いて大切に扱ってはいますが・・・。
 
もしかしたらクライヴも本当に女性を愛せるようになろうと努力して、新婚当初くらいは夫婦の交わりがあったかもしれませんが、恐らく今は完璧なプラトニック。あるいは、トライしてみようとした結果不能で、それ以降夫婦の間でアンタッチャブルな事柄になっているのかもしれません。何一つ不足の無い完璧に恵まれた結婚生活だし、お互い育った環境と責任から培われた義務感や使命をよく理解しているし、伴侶として相手の人間的な魅力も認め合っている。でも、心の隙間はうがちようがなく・・・この夫婦の未来も、気になります。
 
 
考えてみれば、同性愛的な思い出を完全に排除したければ、モーリスとの交際も一切絶てばよかったのに、自分はノーマルですよ、若気のほんの気の至りは水に流してくれあっはっはとしらばっくれてもモーリスを手放そうとしなかったクライヴ。只の気の置けない友人として、自由に家に出入りさせて家族同然の付き合いを望んだそれは、恋人になることのできないクライヴが、世間体を傷つけることなくモーリスへの愛に固執することのできる思いついた唯一の方法だったのかもしれません。
 
モーリスが自分の元を鮮やかに去ってしまった後、窓際からふと庭を眺めながら大学時代のモーリスの姿がフラッシュ。後ろからそっと近づいたアンが「who you talking to? (誰と話しているの?)」と声をかけるのも、何とも言えません。クライヴはただ黙ってほんのひととき立ちすくんでいただけですが、アンには、夫が心の中で自分以外の大切な相手に語りかけていたことを見抜いていたんですね。クライヴも言う通り、アンは勘の鋭い女性です。
 

何でもないよ、と夢想から我に戻って妻に語りかける夫。そんな夫に寄り添う妻。遠くからみたらきっと、仲睦まじい夫婦の姿。でも、身体はこんなに密着しているのに2人の視線は別々の方向に向けられています。物理的な距離とはかけ離れた、心の距離。このラストの窓辺のシーンは映画のオリジナルだそうですが、始まりと同様、美しく詩的で情緒あふれるシーンですよね。アイヴォリー監督の映画は、とにかくラストの余韻がとてつもなく美しいです。
 
原作者のE.M.フォスターは、自分も同性愛に悩んで苦しい葛藤を抱えていたらしく、当時としてはあまりに衝撃的な内容だったため、この小説が発表されたものフォースターの死後だったそうです。クライヴは、フォースター自身の分身でもあり、最後は障害しか待ち受けていないような道ならぬ愛に突き進んでしまうモーリスは、フォースターの、そしてクライヴの実現できなかった憧れであり、フォースターの願望の投影なのかもしれません。
 
モーリス自身の物語として観るか、モーリスを台風の目として彼を中心に巻き込まれていく周囲の人間達を俯瞰する視点で観るか、あるいはクライヴに視点を重ねてモーリスのことを見つめモーリスを想う物語、という解釈の仕方もあるんだな、と思いました。
 
フォースターも、クライヴとモーリスも、今の時代なら自分を偽ったり社会を憚ったりすることなく自由に愛を語り、幸せになれたかもしれません。でも、葛藤や屈託があったからこそ、傑作が産まれたともいえる訳で、やはり何事も一元的には語れない。物事には様々な面があり、事象には理由があって、多次元的に作用しあっているんだなと改めて感じます。中野京子さんの『名画で読み解く イギリス王家12の物語』でも書かれていた、産業革命による繁栄とファッションや芸術の発展できらびやかなヴィクトリア朝が確立されたヴィクトリア女王の治世が、イギリスの煌びやかな繁栄と栄華の時代である一方で庶民の貧困問題や切り裂きジャックなどの猟奇事件の多発など暗い一面も有していたように。
 
さて、最後におまけそのいち。ケンブリッジでモーリスとクライヴが初めて出会った時、2人はリズリーの部屋から「ピアノラ」の楽譜を持ち出してモーリスの寮のピアノラで一緒に音楽を楽しみます。この「ピアノラ」って何?
 
ジャーン映画に登場したのもこれに近い?いや、レコーダーの機械は外付けでなくアップライトのピアノと一体化していたような気がしますが・・・。日本語では「自動演奏ピアノ」と呼ばれていたようです。オルゴールとピアノを合体させたような。普通にピアノとしても演奏できますが、ロール紙状の楽譜をセットして、足下のペダル(ポンプ)で空気を送ることによってピアノのハンマーを動かし、自動演奏させる仕組み。20世紀初頭に普及したようです。
 
そして、この時2人がピアノラで鑑賞した曲が、チャイコフスキーの交響曲弟6番、《悲愴》です!「アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男」のバウアー検事長が自室のレコードプレーウヤーで聴いていたお気に入りのレコードも、《悲愴》でした。バウアーも同性愛者でした。単に当時の人気楽曲だったというだけかもしれませんが、ゲイの人たちにとって《悲愴》は特別感じ入るものがあるんでしょうか?(´ω`*)
 
そしてもうひとつおまけ。クリケットの試合を見学する、可憐だった頃のヘレナ・ボナム=カーターのショットです。
 
 
このあと、アイヴォリー監督の一番の秘蔵っ子主演女優となっていきます。私、ヘレナ・ボナム=カーターとキーラ・ナイトレイが、女優として辿るキャリアの傾向も含め、ものすごーく類似を感じるんですよね。その辺はまた、機会があれば。
 
まとめなくちゃ!分りやすく解説しなきゃ!の気負いがまったくないため、ダラダラと徒然なる思考のそのままに書き綴ってしまって、失礼しました。なんのまとまりもないままアップしますがご容赦ください^^。アイヴォリー監督の最評価ブームで、E.M.フォースターの原作本も、アイヴォリー監督の映画作品も、いっきにリバイバルしないかなぁ・・・。