身毒丸 ファイナル (2002年公演)
作: 寺山修司、岸田理生
演出: 蜷川幸雄
出演: 藤原竜也、白石加代子、三谷昇、蘭妖子、石井愃一 他
先日、蜷川幸雄さんの三回忌追悼公演の「ムサシ」を観に行きましたが、こちらも三回忌追悼の企画。「蜷川幸雄シアター2」と題して、生前の蜷川演出の代表的な舞台作品の映像を、期間限定・上映館限定でスクリーン上映するというもの。
今回の対象作品は柳楽優弥さんや吉田剛太郎さん出演の「NINAGAWA・マクベス」、藤原竜也さんと白石加代子さんの「身毒丸ファイナル」、市川猿之助さんや筧利夫さんらオールメンズキャストによる「じゃじゃ馬ならし」の3作品。一周忌の時にも1回目の「蜷川幸雄シアター」企画があってその時の対象作品は「ジュリアス・シーザー」「身毒丸 復活」「間違いの喜劇」「ヴェニスの商人」の4作品でした。どちらかというと前回の方が観たい作品揃いだったのですが、上映期間が1週間ずつということと上映館が限られているため前回はどれもタイミングが合わず残念だったので、今回は観にいってみたいな~と思いつつ、寝込んでいたのでマクベスは見逃したのですが。以前から気になっていた、藤原竜也x白石加代子のキャスティングの「身毒丸」、行ってきました^^。
2002年公演。藤原竜也さんは15歳でのデビュー作だった前回の「身毒丸 復活」(初演時の主演は武田真治さんだったらしい)より大人になった20歳前後ですが、もっと若く見えるほど瑞々しい!可愛い!(笑) 16年の月日を感じます。一方で、白石加代子さんは、そりゃ確かに今よりお若いのだけれど・・・なんていうか、ある意味驚くほどの変わらなさというか。あの方の迫力と存在感は、10歳や20歳、体重も10kg程度の増減では、もはや影響受けないのだな・・・と妙に納得^^;。
それにしても・・・幻想的というか抽象的な演出も多く、中々に難解。前衛的というのでしょうか。テーマは・・・継母と継子の、歪んだ、そして禁断の、深い愛憎劇・・・でしょうか。とにかく主演のお2人の真に迫った迫力が圧巻!それを増幅させる、この世と異界の狭間を彷徨うような異形の者たちの行列やダンス・・・ザッツ、蜷川ゲージュツ!な世界。(そして寺山修司ワールド)
身毒丸=しんとくまる、なんていう不思議な命名、どこから発想したんだろうと思ったのですが「しんとく丸」という中世の説話があったんですね。その説話のさらなる元ネタは「俊徳丸伝説」(高安長者伝説)。ウィキによるそのあらすじは「河内国高安の長者の息子で、継母の呪いによって失明し落魄するが、恋仲にあった娘・乙姫の助けで四天王寺の観音に祈願することによって病が癒える」というものらしいです。この伝承をベースにした寺山修司xニナガワ的舞台はというと・・・。
身毒丸(藤原竜也)の父親は、「家」という入れ物に「父」「母」ふたりの「子供」が収まっているの「家族」という形があるべき姿である、という理念を持っていた寡夫で、その形を完成させるためにせんさくという名の連れ子を持つ女、撫子(白石加代子)を「買い求めて」くる。理想の家族の完成に父親は大変満足。撫子の連れ子のせんさくも、屈託なく身毒丸をお兄さん、父親をお父さんと呼びすぐに懐きました。しかし。
自分が生まれてすぐに死んだ生みの母親の面影を慕い、暇さえあれば仏壇の前に居る身毒丸は継母・撫子の存在を認めず反抗的な態度をとり続けます。一方撫子は、母よりも「妻」となったことを喜び、新しい子供を欲しいと願いますが夫にその気はなく、「女」ではなく「母」としての役割しか求められていないことに失望し、さらに継子の身毒丸がどんなに努力しても自分を母親として認め懐いてくれないことに悩みます。
女としても母としても身の置き所の定まらず、鬱積したものを抱える撫子は、入浴中の身毒丸の裸体をうっかり見てしまい、ハッとします。この時、観客は、撫子の抑圧された「女」が身毒丸の裸体に本能的にあらぬ欲情をかきたてられたことを感じさせられます。一方の身毒丸の方も、咄嗟に自分の身体を隠し撫子に嫌悪感を見せながらも、体内でざわつくものが生じていることも想像させられ、後々の暗示となります。
半年経っても身毒丸と撫子の関係は改善されず、産みの母親の面影を追い続ける身毒丸は怪しい仮面売りの男から借りた「穴」を通って死者たちの棲む地下世界を彷徨い母親を探しますが、やっと見つけたと思った愛しい母の後ろ姿は、むしゃぶりつきその正面を見ると撫子でした。さらに2年が経ち、とうとう追い込まれた撫子は自分が「家」の一員であり続ける為に、身毒丸を藁人形で呪い、身毒丸は両目を潰され行方知れずになります。
身毒丸が抜けて3人の「家族」となり安定した平和な日々が訪れますが、何かにイラつきと不安を覚える撫子。そんなある日、盲目となった身毒丸がふいに戻り撫子の連れ子のせんさくを汚し、「家族」の均衡が失われたことに父親は耐えられず狂気の殻に自らを閉じ込め、家は崩壊します。何もかもが失われ廃墟となった「家」の跡地で、再び対峙した身毒丸と撫子は、男と女として互いの肉体を貪りあい・・・その行く先は。というところで、冒頭の異界の住民らの行列に紛れて終わります。
身毒丸の異常なほどの母性への執着は、そのまま思春期の男子の女体への憧れと欲望の裏返しでもあり、女であることを封印された撫子の欲情は、健康的で若々しい義理の息子の肉体に煽られ・・・互いに憎み反発しあいつつ、どちらも満たされない親子の情愛と肉欲の吐き出し口を相手に本能的に求めあう、その激しいせめぎ合い。カタチにはまった道徳や規範、理性と情念、それらの反発しあう摩擦のエネルギー。そういったものが詰まった舞台、と感じました。身毒丸と撫子を舞台上で取り巻く、異界の住人的な人たち・・・白塗りの仮面売りとか、妊娠しているウェディングドレス姿の顔の見えない女性とか、小人とか、その他形容しがたい存在たちと、どこからどこまでが現世でどこからどこまでが想念世界か、あらゆる境界線が曖昧な、グロテスクで幻想的な演出が、理解できずとも強烈な印象を残しました。
普段の自分にない感性のシャワーを浴びて、中々に刺激的でした。それはよいのですが、同じ列にいらっしゃったおじさまが、途中からズーッピズピーっと鼾と共に夢の国へ・・・。いや、さほど大音響というわけでもなかったしスクリーンに集中していたらあまり気にならなかったのですが。なんでかなぁ?この1、2年、映画やお芝居やオペラやコンサートなど、私が出かけると5回のうち2回は、鼾の演奏や、携帯の着信音なっちゃうとか、ウトウトした為に手に持っていたオペラグラスなど荷物を落としてシンとした会場中に大きな音が響く・・・といったアクシデント?に遭遇するのですけれども。
音楽会とかオペラとかは、音色が心地よくてウットリして眠くなってしまう、というのはあるものですが(私も一瞬ウトウトしてしまうこと結構あります^^;)、それがちょっとした迷惑的アクシデントに繋がることを目撃する回数が増えているのです。避けられないアクシデント、というのもありますが(着信音が鳴り響いていてもすぐに切らずに鳴らしたまま立ち上がって移動して電話に出ちゃう、とかいうウッカリの後のさらなるマナー違反にはイラっとしますが)ちょっと頻度高すぎない?^^; なんでだろー。なんでだろー。最近の小さな疑問です。自分が映画を観にいけるのがどうしてもレイトショーが多くなるとか、選ぶ演目や公演が高齢者好みのものが増えている・・・のでしょうか??^^;(ソソウするのが必ずしも高齢者の方ばかりというわけでもありませんが)