ものがたりの小部屋

ものがたりの小部屋

昭和8年生まれのおばあちゃんが、小学生の頃を思い出して書いたものがたりです。こんな時代があったことを、残せたらいいなと思っています。
ときどき童話も書いていきます。

Amebaでブログを始めよう!

「コの字シェルター」を書き終えました。


むずかしい言葉や表現があって、読むのはちょっと大変だったかもしれません。

てる子さんもいろいろ迷ったようですが

戦争中の若い人たちの気持ちを、今の若い人たちにも知ってもらいたいと思って書き進めたようです。


幸い、日本は「百年戦争」の戦場にはなりませんでした。

でも、これからさきもずっとそうでしょうか。それは誰にもわからないような気がします。


髪の毛一本も残せないまま亡くなった均君のような中学生が

二度と再び生まれませんように


      

                                    


ところが答辞を読む者が木津良二だと分かると、みんなはひそひそと私語を始めた。良二の成績が中より少し上程度だったのと、校内一の腕白者で、態度が良くないとしょっちゅう先生に叱られているような奴だったからだ。


「あいつの祖父(じい)ちゃんが、えらい役人なんだってさ」

「あいつ体格が良いだろう。来賓が来たとき、すぐお国の役に立つ生徒だつて思わせるためだってさ」

という声が聞こえてきた。


「なあに、あいつの兄貴が予科練に合格してるせいだよ」

という者もいた。


そういう噂が本人の耳にも入るのか、良二は近ごろ何かというと均や健太やおれを目の仇にするようになった。 今日も昼休みに運動場の隅で日向ぼっこしながらおれ達が座り込んでいると、良二は手下の二、三人を連れてやってきた。にやにや笑いながら


「お前ら、徴兵猶予を狙っているんだって」

と挑むように言った。おれ達は顔を見合わせた。「うん」と言ったら最後「非国民」とのはやされるのは分かっていた。均などはもう青くなっていた。


おれは言った。

「別に。おれはただ理学部志望なだけだ」


良二は肩を揺すってせせら笑った。

「心配すんな。どうせお前らは丙種(へいしゅ)だぜ。お国の役に立てねえ不名誉な話さ」

おれ達はだんまりを通していたが、良二は更に言った。


「知ってるか。徴兵検査の時、採便ってことされるんだぜ」

「サイベン?」


これは誰も知らないことだった。良二は得意げに教えた。

「みんな素っ裸にされてさ。ケツの穴から棒を突っこまれてウンコを採られるんだぜ」


おれは「嘘だろ。嘘にきまってら」といってやりたかった。

だが言えなかった。軍隊というところならそんな乱暴なこともありそうだと思ったからだ。


「ぐ、ぐう」

というような声を出して健太がのど元を押さえてしゃがみこんだ。吐くものがないので泡を吹いている。おれと均はあわてて背中をさすってやった。

良二はさすがにバツの悪そうな顔をしていたが、その時始業のベルが鳴ったので、救われたように駆けて行ってしまった。おれは健太を支えてやりながら、ふと、こんなに弱っていると中学へ行ってもきびしい教練に耐えられるだろうかと思った。


卒業式の前の晩、おれは取って置きの新しい鉛筆を三本、注意深く小刀で削っていた。この三本はぐうぜん父さんの筆箱の中に残っていたもので、今どきの、削る片はしから折れてしまうような品物じゃなかった。

卒業式の次の日はいよいよ中学校の入試だ。必要な書類はちゃんと揃っている。参考書や辞書はもう見ないことにしていた。後は正しい答案をすらすらと書く鉛筆だけ用意すればいいんだ。明日はもう何もしなくて良いようにそれぞれの鉛筆にきちんとキャップをかぶせて筆箱にしまった。


まだ八時だというのにばあちゃんはもう居眠りをしていた。ばあちゃんは今年の冬はすっかり弱ってしまって布団は敷きっぱなしだし,しょっ中独りごとは言うしで、おれはうんざりしていた。

「ばあちゃん、眠るんなら着物ぬがないと風邪ひくぞ」

ばあちゃんはのろのろともんぺを脱ぎはじめた。どうせばあちゃんは空襲警報が鳴っても「めんどくさい」といって退避しないんだ。「敵サンは毎晩のように来るけど、偵察にくるだけやないか。そんなもんに付き合うていられん」とも言っていた。


おれも内心はその通りだと思っていたので、ばあちゃんの思う通りにさせてやっていたんだ。おれは久しぶりにラジオドラマを聞くことにした。時々ぶったたかないとプチンと切れてしまうようなラジオだったけれど、この夜はちゃんと聞こえた。ドラマが終わったあともだらだらとラジオを切らずにいたら、また警戒警報だ。


「○○部軍監区情報、○○部軍監区情報・・」 

というアナウンサーの緊張した声が飛び込んできた。ガーガーと雑音がひどくなるのを耳をくっつけて聴いているとB29の大編隊がこっちへ向かっていると言うのだ。


おれは急いで防空頭巾をかぶるとリュックサックへ大切なものをいれていつでも避難出来る用意をした。その頃まではまだ空襲の恐ろしさが分かっていなかったのだ。敵サンさんは来るけれどいつだって通り過ぎて行くだけのように思いこんでいたのだ。


「ばあちゃん。着物を着ておいた方がいいぜ。何だか今夜は普通じゃないよ」

おれの言葉が終わらないうちに、いきなり町内の火のみやぐらでけたたましく半鐘を打つ音が聞こえてきた。くるったように乱打している。[敵機来襲]の合図なんだけど、そんなものは必要なかった。現に敵機の大編隊がもう頭の上に来ていたんだ。


何百機(とおれには思えた)もの爆音と半鐘の連打、おれはたちまち気が狂いそうになった。何もかも手につかない、というより何ひとつ考えられなかった。「あ、もう死ぬ、死ぬ。だめだ、もう終わりだ」という思いがいっせいに押し寄せて、りんごでもつぶすようにおれの頭にのしかかってきた。


とにかくどこかの防空壕へ入れてもらおうと、ふるえながら一歩ふみだそうとした時、べちょっとした生温かいものに腰をつかまれてとび上った。

「勝男、かつお。ばあちゃんも防空壕へ入れてもらう。いっしょに連れていっとくれ」

というしゃがれ声がした。ねまきのままのばあちゃんが、おれの足にすがりついているのだ。


「頼むわ。ばあちゃんも退避するで」ふだんいくら勧めてもがんこに防空壕には入らないと言い張っていたようすとは大違いだった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       でもおれにはころっとかわったばあちゃんに腹を立てたり笑ったりする余裕はなかった。出来ることなら放っといて先に逃げたいところだったが、そうも行かなかった。


おれは無言でばあちゃんのもんぺとねんねこ半纏を持って来て身支度をさせると背負うようにして、路地伝いに均の家の防空壕まで連れて行った。もう辺りはあちらこちらで上がった火の手で昼間のように明るくなっていた。均の家の壕は話に聞いていたよりも深く広くて中には裸電球だったけれども電気さえひいてあった。階段を数段下りただけで外の恐ろしい音響と光線がすうっと遠のいたような気がした。


均は親切にばあちゃんを一番壁が分厚いというコの字の下の枝の部分へ入らせてくれた。ばあちゃんは喜んで須賀家のひとたちを拝んだ。


「勝男、お前もここに居ろよ。きょうのはひどいぜ」

と均はいってくれた。見たところまだ余裕がありそうだったのでおれもそのつもりになった時、ばあちやんのあわてた声が聞こえた。


「しもうた。信玄袋を布団の中へ忘れて来た。勝男、すまんが取ってきておくれんか」

仕方なかった。ばあちゃんの信玄袋は郵便局の通帳や判こが入っている大切なものだ。おれはぶつちょう面をしたまま取って返した。


気の毒そうに戸口まで送ってきてくれた均は

「早く戻ってこいよ。遠慮はいらないぜ」

と言い、続いて声をひそめて 

「聞いたかい。理学部生の徴兵猶予はもう取り止めになったんだとさ」

「えっ?」

とふり向いたおれの目に実に哀しそうな表情の均の顔が映った。おれはあとあとまでこの時の均の顔が忘れられなかった。



全速力で家に戻った。ばあちゃんの信玄袋はすぐ見つかった。まだ半鐘と爆音は続いていたが、少し落ちつきをとりもどしていたおれは、雨戸を締め台所の火元を確かめてから均の家の壕へ戻った。時間にしても十五分もかかっていなかった。だのに、どういうわけか壕の戸はぴっちり閉められていて、外からどんなに喚こうが叩こうが応答がなかった。


おれはあきらめた。何かのまちがいで須賀家の人たちが中から錠をかけたんだ。とすると今夜の空襲が終わるまでその戸は開かないに違いなかった。おれはあきらめて走り出した。おれの考えは間違っていなかったと見えて、表通りにはいつのまにか避難する人間があふれていた。


「川へ行け、大川だ。水のそばが安全だぞ」

とか

「橋はいかん。爆撃の目標になる」

とかいう声が入り乱れて聞こえた。おれの体は人に乗せられているように川べりへ運ばれて行った。


「勝男、どうして均んちの壕に入らなかったんだ」

不意におれの腕をつかんだ奴がいた。健太だ。おれは(ああ、こいつも防空壕に入れなかったんだ)と思った。健太はおれの手をぐいぐい引っ張って川べりの下水溝へ隠れた。それは直径二メートルはありそうな大きい土管だった。二人は夜明けまでそこにいた。


命が助かったと思ったのは、半鐘も爆音も嘘のように消えていると分った時だった。

おれは安心して家に帰った。ところが須賀の家も健太が引き取られていた小母さんの家も焼け落ちていたんだ。町の中で残っていたのは一番みすぼらしいおれんちの長屋だけだった。


須賀のおやじさんが自慢していたコの字のシェルターは直撃弾を受けて家、工場もろ共ふっとんでいた。焼け跡は深くえぐれていて骨ひとつ髪の毛一本残っていなかった。健太の親類の一家は防空壕がちゃちな手作りだったので、爆撃が激しくなった頃、もう町の外へ逃げていたらしい。おれは健太といっしょにとにかく小学校へ行ってみた。


学校はかなり爆風にやられていたが建物は残っていて負傷者がどんどん運びこまれていて、先生たちはてんてこまいだった。卒業式どころじゃなかった。おれはばあちゃんがやられたことを担任に話し、文を教えてもらって療養所の母さんに「カツオブジ、ソボヒサイ」と電報を打っておいた。


健太は広島の別な親戚へ行くようにと先生から勧められていた。何でもよっちゃんの小母さんが焼け出されたままのかっこうで学校へ来て、よっちゃんを山梨の小学校へ転校させる手続きをして行ったそうだ。


おれと健太はその夜は、おれんちで寝た。次の日、中学の入試についての説明があるというというので学校へ行くと、今回に限り受験生は全員第一志望の効公立への入学を認めると決まったと知らされた。


健太とおれは顔を見合わせて久しぶりに心から笑った。おれの記憶ではこの戦争で得をしたのは、この時の無試験入学ただ一つだった。でも健太はせっかくの特典を活かすことができなかった。広島の親類が心配して引き取りにきてくれたからだ。「あちらには師範の付属もあるから」と担任は言ったらしい。


おれは「軍隊でまた会おう」といい、健太は「ヨーロッパには百年戦争なんてあったそうだから、おれたちもお国の役に立つだろう」と言った。おれは頷いて別れた。

  

                                        (おわり)


いいたいことを言ってしまうと、よっちゃんはさっさと裏門へ消えてしまつた。


健太はそれでも申し訳なさそうにポケットに押し込まれた包みをにぎっていたが、やがてそっと引っ張りだした。それは乱暴にあつかうと消えてしまうとでも思っているようだった。

おれは目を見張った。健太の手にあるのは堅そうに乾いた干し芋だった。おれたちはそれをカンコロと言っていた。何の味付けもしていないがさつま芋なのでしがむように噛んでいると多少は甘くて腹の足しになった。


おれは内心羨ましいのを隠してそっぽを向いた。たとえ親きょうだいにでも自分の分の食糧は分けたくないほど配給が少ない今、健太がもらったほし芋を独り占めしようとそれはしょうがないことだった。おれだってそうすると思った。

ようやく鍋がふっとうしてきたので、おれは七輪の火を少し落とした。といってもねじった古新聞を小さくしただけだったけれど。


「勝男、ほら」


見るとカンコロ芋の一切れが、おれの目の前に突き出されていた。おれはびっくりして健太を見た。健太は疲れた笑顔で「ほらほら」といいながら俺の手にそれを渡した。

おれは何か熱いものがのど元へ上がってくるのを感じた。このカンコロ芋を一俵分食べても健太の飢えはおさまらないはずだった。おれはこの一切れはもらうわけにはいかないと思った。

だのに自分の手にあるカンコロをどうしても返せなかった。おれは「済まんな」とおとなのように言うと、それをポケットにしまった。寝床の中の楽しみにとつておこうと思ったのだ。


「まあ、当たれや」


とおれはますますぞんざいに言って、燃えかすだけになっている七輪の火に手をかざすようすすめた。そして自分は鍋の耳をつかんで台所へ運んだ。仏壇の前で夕方のお経を上げているばあちゃんを呼んでちゃぶ台の前に座らせ、こんどは茶を沸かそうと七輪のところへもどると、健太の姿はもうなかった。ちゃぶ台ではばあちゃんが「豆が煮えとらん」と苦情を言っていた。


次の日、分団ごとに集まって登校する時、おれは健太のそばへ寄って「昨日は有難う」とささやいた。そして健太の頬がいつもより紅くなっているのに気づいた。

「お前、今朝はずいぶん元気そうじゃないか。何かいいことでもあったのかい」

健太はますます顔を紅くした。そして女子の列にいるよっちゃんの方をちらりと見ながら

「ゆうべぼくの母さんの田舎から餅が届いたんだ。ぼくの母さんの田舎からだもの、ぼくは大いばりで三個も食べたのさ」

と言って、さもうれしそうに笑った。


おれはぐきっと心臓をつかまれたように感じた。餅なんて正月にも食べていない。おれんちは老人と子供ということで「配給のもち米だけではとても餅には仕上がらない」といって断られたんだ。ばあちゃんはどうせ歯がだめだし、喉に詰めるかも知れないからと、餅には未練がなかったけれど、おれは初めて餅ぬきの正月を過ごさなければならなかったたんだ。

おれは健太が餅までおれに分けてくれるんじゃないかと虫のいい期待をしたが、そんなことは起こるはずもなかった。おれは勝手に期待し勝手に裏切られたのに、恥ずかしさも手伝ってあべこべに健太を恨みさえした。そうとは知らない健太はいつものようにしきりにおれに話しかけて来た。


「ねえ、勝男。君、師範学校を受験するんだってほんとかい」


おれはすぐに返事する気分じゃなかったから、その時登校の列が動きだしたのを機会にだんまりを通した。分団行進をしている間は私語は禁じられているので、健太はおれがわざと黙っているとは思わずに歩いていた。ほんとは健太のいう通りだった。それは師範学校をじゃなくて師範学校もだったのだ。それは受験日がほかの公立中学と違っていたからだ。


おれの家の事情では、滑り止めの私学は受けられなかったから、せめて師範を受けることで二股かけようと思ったんだ。これについてはおれは、初めて療養所の母さんに手紙を書いて受験料を送ってくれと頼んだ。するとばあちゃん宛てに返事が来てばあちゃんが郵便局からお金を下ろしてきてくれた。ばあちゃんも役に立つことがあるんだとおれは思った。  


けど師範学校は結局受けられなかった。というのは受験日の前の日、電報が来てそれには「ミヨ コ ヨ ー タ イ キ ケ ン オ イ デ コフ」とあった。美代子というのが母さんの名前だ。ばあちゃんはうろうろするばかりで、おれはまだ療養所へ連れて行ってもらったことがなかったのでどうしようもなかった。高原の療養所までの汽車の切符がまず取れなかった。母さんの親類は遠いしふだんから付き合いがない。父さんは一人息子なのでばあちゃんは誰を頼ることもできなかったんだ。


とにかくもう受験どころじゃないので、師範は棄権した。何日かかっても切符を手に入れようと駅へ行く支度をしていたら、また電報がきた。「勝男、読んでおくれ。おばあちゃんは怖くて読めないよ」と押しつけられた紙切れを、おれはもうやけくそになって声に出して棒読みした。「ヨータイモチナオスクルニオヨバズ」おれは拍子抜けして、ばあちゃんに渡した。ばあちゃんはぽろぽろと涙を流し「良かった、よかった」とくり返した。おれはもうどんな電報が来たっておどろかないぞと力んだ。そう思わないことには、あのとんでもない時間に「デンポウ、デンポウ」と配達されるあの小さな紙切れの恐怖に勝てなかったんだ。


でもまあその後は、幸い良くも悪くも電報はこなかった。ようやく葉書を書けるほどに回復した母さんが、「とにかく中学入試に全力を尽くすように。そうすれば戦地のお父さんも安心なさいます」という便りを寄越した。


卒業と入試の迫ってくる中で均も健太もおれも、とりあえずは受験勉強をしていた。学童疎開や縁故疎開で都会の受験生が減ってるので競争率は低いから楽だろうという噂が流れていたが、おれはそんなものは信じなかった。師範学校が受けられなかった今、何が何でも志望校に入らなければならないと思っていた。


正直言って受験の手続きをした中学は、学区内でもトップ級の難しさで評判の学校だった。金には不自由をしないから滑り止めの私立を二校も受けた均でさえ一ランク下を志望しているのだ。少々複雑な気持ちになるのは健太も同じところを狙っていることだ。健太は口では「本土決戦なんていわれてる中で受験するのって何だか落ちつかないな」なんて言いながら実は猛烈に勉強しているのを、おれは知っている。


灯火管制の黒いカーテンの陰で空きっ腹を紛らわしながら机に向かっているのはおれだけじゃないと思うと心強かった。何てったっておれたちは理学系の大学へ入って徴兵を猶予してもらうのだから、そのためにも進学校へ行かなくちゃならないんだ。


学校では卒業式の予行演習が始まっていた。三十人余りの六年生の話題は、卒業生を代表して卒業証書を受け取る者と、在校生の送辞に対する答辞を述べる者がそれぞれ誰になるのかという興味に集中していた。


ただし卒業証書を受け取る者はもう決まっていた。それは須賀均だつた。この役に当たる生徒は席次が一番の筈で、皆はそれを信じて疑わなかった。それほど均はみんなからいい奴だと思われていたんだ。成績では負けていない自信のあるおれも、均が卒業生代表になることに別に不服は感じなかった。

「均のお母さんはそんな意地悪はしないよ」

「お前は何にも知らんのじゃ。去年、国債の割り当てが払えんかった時、菅野さんは一流会社へお勤めでしたから、留守宅へのお手当てもたくさんおありでしょなんて嫌みをいうたのはあの女や。軽蔑し切った目でじろじろ見回して・・長屋住まいと思うてばかにしとる」


近頃ばあちゃんの言葉使いがだんだん荒くなっておれは閉口していた。母さんがいたころは上品ぶったもの言いだったのに、変な話だけど戦争がひどくなるにつれてすさんで来たようだった。というより食べる物がなくなってからと言ったほうが当たっているかも知れない。ばあちゃんがばんばん言うので相手も冷たくなるんだとおれは思った。


「もしそう言われたって入れてくれるっていうんだから入ればいいじゃないか。あそこんちのは随分深く掘ってあるしセメントで固めてあるからかなりの爆弾でも安全だってさ」

「いいや、ばあちゃんはもうこれ以上長生きしようとは思わん。早ようお迎えが来たほうが楽やと思うてるで、いざという時は、勝男、お前だけ入らせてもらえ」 


またこれだ。二言目には「早くお迎えが来てほしい」と言う。

母さんが居るとき母さんが「そんなことをおっしゃるもんじゃありません。お母さんにもしものことがあつたら新之助さんに私の申し訳が立ちません」とか何とか言ってなだめていた。


新之助なんて歌舞伎俳優みたようなのは、おれの父さんの名前なんだ。母さんが病気になって遠くの療養所へ行ってからも同じようにばあちゃんはぐちを言っていたが、おれはそんなものの相手をしているひまも積もりもないから、ばあちゃんのぐちはから回りしていた。


おれは台所へ行ってなべを取り出し、ひとにぎりずつのくろい米と麦を入れ、ゆうべから別のなべで水につけてふやかしておいた大豆を足した。勝手口の外へ七輪を持ち出して木っ端と古新聞紙で焚きつける。

しっかりした薪がないので、煮えるまでそばについてなくちゃならない。頼りない火を見ながらおれは川原へ行って木っ端をとってこなくちゃと思った。


「もうご飯の支度かい」 

見ると健太が寒そうに前こごみになりながら立っていた。おれもやせているが、健太のやせ方は普通じゃなかった。

もともと大きな目がおちくぼんで頬も年寄りみたいに凹んでいた。おれとちがってチビだったからよけいに貧弱に見えた。みかけによらず気が強いのでようやく生きているといった感じなのだ。


健太が預けられている親類の家はおれのすんでる長屋の家主で、おれたちの長屋の路地がそこの裏庭に面していたから、健太は裏伝いにすぐ来られたのだ。その顔色を見ておれは健太がおれ以上に腹を減らしていることが分かった。

健太の親類の小母さんの家は女の子ばかり四人も子どもがいたから食糧が足りないのは当たり前なんだけど、小母さんは自分の子どもたちにまずたべさせてその残りしか健太にはくれないという噂だった。


おれは今作っている雑炊を一杯でも健太にやるべきだと思った。だけど雑炊はみそ汁のようにうすくてしかもおれとばあちゃんの二杯分しかない。自分の一杯を半分にしてほかの者にやることはたとえ親友の健太でも嫌だった。

だって朝は炒り豆一にぎり、昼は大豆九割のめしとぬるま湯のようなみそ汁だけなんだから腹は空ききっていたんだ。ばあちゃんだっては歯のない口をモグモグぐさせながら雑炊一椀を楽しみにしていた(ばあちゃんはそう入れ歯の治療をしている最中なのだ)。

おれは目を伏せて敗れたうちわで七輪の口をやけにパタパタあおった。


「健兄さん」

健太と同じぐらいの色黒の女の子が裏口から出て来た。これは健太がやっかいになっている家の一番大きいよっちゃんという子だった。よっちゃんは一年下の五年生で背はもう健太より少し大きかった。

よっちゃんはおれにも笑顔を向けるとつつーっと健太のそばへ寄って何か紙包みをポケットに押し込んだ。そしてこまっしゃくれた口ぶりで言った。

「あんたにだって配給はあるんだから母さんが何てったってたべなきゃだめよ」


健太はおずおずつぷやいた。

「だって遅配(ちはい)欠配(けっぱい)だつて」

「そんなこと健ちゃんのせいじゃないわよ。いいこと、しゃきっと母さんにいうのよ」

おれ達は走るのをやめた。もう北町は目の前だつた。


「お前んとこ、大きな防空壕、作ったんだってな」

健太が均に言った。


「コの字型なんだって」

「本当かい。あの、家族が分かれて退避するって奴かい」

とおれも尋ねた。


コの字型の壕というのはお上が奨励しているもので、コの字型のそれぞれの枝に家族が分かれていれば、爆弾投下の時、三方のどれかが残って、本土決戦に備えて役に立つだろうということだつた。


この話を新聞で見た時、うちのばあちゃんは「何をいうとる。家族は生きるも死ぬるももろともじゃ」と吐いて捨てるように言っていたのを、おれは覚えていた。


「おれんちには、もともと地下倉庫があったから、それを少し改造しただけだよ」

と均は照れたように笑った。女の子のように色の白い頬がピンクに染まっている。金持ちの親やきょうだいがいて幸せな奴、とおれはねたましく思った。おれの家には防空壕なんぞ無い。年寄りと子供の所帯だもの、掘れるわけがないんだ。


「そうだ、勝男。君とおばあさんは空襲の時、おれんちの壕に来たらいいっておやじが言ってたぞ。うちは町内会長してるから遠慮せずにってさ」


「ありがと。でもうちのばあちゃん、壕なんかには入らないってがんばってるんだ」

均はちょっと不服そうな顔をしたが、おとなしい奴だからそれ以上は何もいわなかった。

角の煙草屋のところで均と、次の角のパン屋の前で健太と別れた。


六軒長屋の奥にある家にもどると、ばあちゃんはまだ防空頭巾をかぶったままちゃぶ台の前にすわっていた。

「ばあちゃん、町内会長さんとこの均が、警報が出たら自分とこの防空壕へ避難してもいいって言ってたぞ」


「うまいこと言うて。はいはいとその口車に乗ったりしたら、厚かましいつてかげ口をきくんだから。あそこの奥さん」


ぼうっとしているのかと思ったら、ばあちゃんはふいに怒り出した。おれはむっとした。均の母さんはそんなわからずやじゃない。均はきっとこのひとに似たんだろうなと思わせる色の白いひとでおれたちにも優しい。