ほら もうま上
いま かあさんを 起こしてるんだ
はるかなくにの 空にのぼって
かあさん おはよう
ボンジョルノ ミア マドレ
会いたいな 大好きなかあさん
あのくもにのり
大空なんか ひとまたぎ
とびこみたいんだ かあさんの胸に
かあさん おはよう
ボンジョルノ ミア マドレ
母をたずねて三千里
エンディングテーマ かあさんおはよう
高畑勲作詞
小学校低学年だった時に大好きだったテレビアニメのひとつで、日曜日の夜に放映されていた。
カルピス劇場。
楽しみにしていたので、エンディングテーマを聴くと、あー!明日は学校だ~なんて思いと入り混じって、軽く憂鬱な気分になった。
時を隔てた今でさえその曲に、同じ感覚を覚えるのは不思議。
放映期間一年間くらいかな?毎週同じ思いをしてたんだから当然といえば、当然かも。 笑
このアニメ、イタリア、ジェノバに住むマルコという少年が、アルゼンチンに出稼ぎに行って音信不通になった母親を探しに行くお話。
三千里は一万二千kmだ。
歌ではひとまたぎ、とあるけど距離そのものは、気が遠くなるようなものだ
マルコにとっては距離の如何を問う以前に、おかあさんに会いたい一心で、一歩を踏み出したのだろう。
マルコの気持ちがよく分かる。
母親に会う事が、マルコの幸せなのだ
もし、世界のどこかに母親が生きていて、そこにいけば会えるというなら、歩いてでも行こうとするだろう
私の場合、母は亡くなっていてこの世にいないから、そう思うのかも知れない。
生きていればつい、いつでも会えると思うから。
私が生きている間に死者に会える可能性は、0。
三木清さんが人生論ノートの中でこのようなことを書いていた。
私がこの世において再び彼等(親しかった死者)に会うプロパビリティーは零である。
私は、私の死において彼等に会い得ることを確実に知ってはいない。
しかしそのプロパビリティーが零であるとは誰も断言し得ないだろう。
二つを比較する時、後者が前者より大きいという可能性は存在する。
もし私がどちらかに賭けねばならぬとすれば、私は後者に賭けるのほかないであろう。
理性がおこなえるぎりぎりの選択。
復活を希望とするキリスト教。
理性で判断するではなく、信じるか信じないかなのだろう。
全体として、信じたい。あくまで感覚的なものだけれども。
理性でもって、考えぬかれた後に残る感覚は、最も頼りになるものかも知れない。
全体として、信じたいと思うものは私に必要なものなのだろう。
幸せを見出したい、という思い。
幸福が自らの内にあるものならば、それに気付く為に、私は世界のたくさんのものに出会いさえすれば良い。
あらゆるところに機会と可能性があるのだから。