丹沢・悲願の日帰り主脈縦断山行記(焼山登山口BS~黍殻山~蛭ヶ岳) | 単独行者の山行録

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歩いた山々の記憶を詳らかに。
山行中心の備忘録。

2月13日、2月も半ばの寒い日の朝、橋本駅を発った三ケ木行きのバスの車内にその男は座っていた。
男の炯眼の先には広大な丹沢の峰々。
そう、その男は昨年3月のリベンジに戻って来たのだった。
燃え上がる闘志を胸に、これから始まる厳しく長い山行を前に集中していた。
普段は呑気で楽観的で適当な彼が、この日ばかりは別人のようなオーラを放っていた。
今回の山行はそれくらいの本気と覚悟が無いと成し得ないという事だろう。
途中のバス停で年頃の女性と相席になった。
今の彼はそんなものに心が揺らぐことは無いだろう。
・・・と思ったら然り気無く横目で一瞥して視線を再び車窓へ戻した。
どうやらあまりタイプではなかったようだ。
硬派な雰囲気を放っているが、どうやらただのスケベのようで、雰囲気が台無しだ。

三ケ木バス停に着いた。
月夜野行きバスへの接続時間の間、男は準備体操をじっくりと一通りこなした。
普段、適当にこなしてはい終わり、といった感じの男がここまで徹底してやるということからも、その本気度が窺える。

三ケ木から月夜野行きのバスに乗車して間もなく、焼山登山口バス停に着いた。
男は下車するなり足早に登山口へと向かった。
麓の集落から焼山が見えてきた。
前回来た時に足元を彩っていた可憐な花々の姿は無く、あるのは凍結した地面と雪だけだった。
去年より一月以上早い挑戦。
男は不安を払拭し、山頂を見据えた。
登山口に着いた。
男はザックを下ろすと再び準備運動とジャンプをして身体をほぐし、士気高揚を図った。
そして、珍しく登山口から早速アイゼンを装着した。
どうやらかなり本気なようだ。
闘志は燦々と燃え上がっていた。
前回は時季的にいるはずも無いヤマビルに慄いていた彼が、真剣な表情で敢然として歩いている。
彼の今の気持ちはこうだ。
「1,2匹程度のヤマビルならぶち殺してやる」(それ以上はごめんなさい)。
樹間からは昨年12月に歩いた石老山と石砂山が見え、写真を撮るとそそくさと歩みだした。
普段は山座同定を楽しむ彼が、ろくに足を止めずに行ってしまった。
日帰りで丹沢を縦断するというプレッシャーは相当なものなのだろう。
彼は明らかに急いでいた。
石砂山
石老山

石畳の登山道をカリカリと音を立てていた足音が、ガリガリと氷を破砕する音に変わった。
彼は今や南極の氷海を往く砕氷船のようなものだ。
荒々しく突き進む砕氷船なのだ。
今の彼なら行く手を阻むものはみなぶち壊してしまうだろう。
危険マークのある急傾斜のトラバースに到達した彼は歩く速度をぐんと落とした。
急ぎながらも要所は慎重に行くあたり、落ち着いているのが見てとれる。
慎重に凍結したトラバースを歩いていると、上から音を立てて氷塊が落ちてきた。
一つ目は彼の2メートル程後方に、もう一つはすぐ目の前に。
上を見上げると、恐らく鹿と思われる野生動物が駆け逃げていった。
彼は動揺していた、突然の自然の洗礼に。
焼山山頂直下の九十九折の登山道は完全に踏み固められていて、快調に登っていった。
去年、ここからつぼ足地獄を延々と続けただけに、安堵しているようだ。
焼山(1,059m)山頂には9:31に着いた。
意外なことに、前回とのタイム差は僅かに2分早いだけだった。
天候、登山道のコンディションの良さに、彼から思わず笑みがこぼれた。
そして、あろうことかスルーの予定だった展望台に登って写真を撮り始めた。
2時間前の真剣な表情は既に無く、明らかに気の緩みが見てとれた。
彼は展望台からの景色に満足したようで、数分で音を立てて降りてきた。
丹沢三峰山と丹沢山
5日前に歩いた中津山地と宮ヶ瀬湖
筑波山と都市部
丹沢の深い山並み

彼の顔が再び真剣な表情に変わった。
一度気が緩むとダラダラと引き摺る彼だが、この日ばかりは違い本気のようだ。
ありふれた道標の前で彼は立ち止まり、写真を1枚収めた。
ここは去年青年と辛いチキンレースを始めた苦い思いでの場所だ。
今となっては笑い種とばかりに、彼は心の中で微笑んだ。
登山道は踏み固められていて、去年地獄のような思いをしたのが嘘のように思えたが、次の黍殻山までが長かった。
途中何度も「あれ?過ぎちゃったかな?」と疑心暗鬼に陥った。
昨年の細かいことはあまり覚えていないようだが、漸く黍殻山への分岐に到達した時、去年よくここまで歩いたな、と感慨深く感じているようだ。
彼は巻き道を選ばずに黍殻山頂へ向けて登りだした。
今回は真剣勝負、ピークを巻いて踏破できたとしても、彼は満足しないのだろう。
巻き道に選ぶ事はハンディキャップを貰うことに等しい。
そのくらい本気の戦いと位置付けているようだ。
黍殻山(1,273m)には10:20に到達した。
前回あえなく撤退した山頂を前に、改めて決意を固める彼の真剣な表情があった。
一方で、これより先蛭ヶ岳までは未知の区間、内心楽しみでもあるようだ。
黍殻山から巻き道に合流するまで、下り坂が続いた。
せっかく稼いだ標高を吐き出し続けたことに、彼の顔に不満が垣間見えた。
2014年に新築された黍殻山避難小屋は遠巻きに見るだけでスルーした。
彼は前々から気になっていて中を覗いてみようと思ってはいたが、今回は体力だけでなく時間との戦いでもあるのだ。
避難小屋を見送る彼の表情はどこか悲しそうだ。
ペースを落とさずにズシズシと緩やかな道を巻きながら登っていく。
その様子から疲れた様子は全く見えないが、次第に表情にある変化が起き始めた。
延々と続く単調な登りに明らかに退屈していて無表情、賢者モードに突入しているのは間違いないようだ。
そんな彼だが、時折展望の良い箇所に出ると無表情が一転して表情が緩むのだった。
中津山地と丹沢三峰山
東海自然歩道最高点に着いた。
ザックを下ろして写真を収めると、入念にストレッチを始めた。
普段とは別人と思えるほど慎重な行動だ。
それにしても、今日は良く雪が締まっていてアイゼンの利きも最高だ。
天気も良いし、全てが自分を後押ししてくれている。
丹沢の山々が自分を受け入れてくれている。
彼はそう思わずにはいられなかった。
日が昇り、雪が眩く思えた頃、彼はザックを道端に置き、中を漁り始めた。
そして何も取らずにそっとザックを拾い上げた。
どうやらサングラスを持ってくるのを忘れてしまったらしい。
だけれど、本気の山行を前にしてもうっかりアイテムを忘れてしまうのは彼らしい。
登山道を曲がると、彼の視界に富士山の端麗な山容が飛び込んできた。
11:10、姫次(1,433m)に到達した。
今日初めて拝む富士山を前に、思わず笑顔がはじけた。
姫次の標柱

姫次からは一転して下りとなった。
男の数秒前の笑みも一転して険しいものに変わった。
彼は勘違いしていたのだ。
姫次から蛭ヶ岳までのCTは距離に対して短いので、ここから蛭ヶ岳は緩やかな登りが主となるだろうと。
彼は姫次から蛭ヶ岳の区間を謂わばボーナスステージと勝手にCTだけを見て解釈していた訳だが、実際は軽いアップダウンが連続することを彼はまだ知らない。
犬越路から大室山、その奥に御正体山と富士山
大笄・小笄から大室山への稜線とその間に御正体山

素晴らしい景色を見送ると、雪と静寂に包まれた美しい林相が周囲に広がった。
これまで足早に歩いていた彼も、その美しい林相を前に足を止めた。
再び歩み始めて暫くすると、快調に歩いていた彼の顔にもいよいよ疲れが見え始めた。
歩くペースもぐんと落ち、想定外のアップダウンに苦しんでいた。
彼は心の中で叫んだ。
く‥そ‥.はかったな....たいさー」
事前にコースの地形を頭に入れずに距離とCTだけで勝手にボーナス区間と想定した彼に落ち度があることは言うまでもない。
毎度の事ながら、彼には学習能力というものがあるのだろうか。
遠かった蛭ヶ岳の登りに漸く到達した。
樹間から見えていた蛭ヶ岳は近いようで遠かった。
立ちはだかる急坂を前に、彼は再び気持ちを奮い起たせた。
心が折れれば今回の山行は達成し得ない。
落ち着きを取り戻し、ぐんと歩調を落として急坂に取りかかった。
背後にはいよいよ視界が開け、南西から北にかけて大パノラマが広がった。
彼は夢中になって写真を撮り続け、遺憾無く景色を楽しんだようだ。
歩いてきた稜線を振り返る
丹沢標高No.2の檜洞丸とNo.6の大室山
道志や大菩薩連嶺の山々
愛鷹山と富士山を遠望

だが、素晴らしい景色の後に待ち受けていたのはガレ場の縁を通る凍った雪が乗った階段だった。
少しでも足を滑らせて滑落でもすれば、数百メートルは転げ落ちそうだ。
彼は恐る恐る何とか通過することが出来たが、これが下りだったらどうなっていただろう。
逆の北上コースも選択肢にあっただけに、南下コースを選んで本当に良かったと安堵した。
そして12:27、彼はついに神奈川県最高峰の蛭ヶ岳(1,672m)の頂に3年ぶりに立ったのだった。