エルサレムには、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3大宗教の聖地があり、昔から、さまざまな聖書の物語の舞台となったり、紛争の原因になってきました。ユダヤの歴史は、約4000年くらい前に、族長のアブラハム、その子のイサク、その子のヤコブによって始まり、旧約聖書にアブラハムが唯一の神に出会ったことについて書かれています。旧約聖書によると、神はアブラハムに、その子孫を星の数ほど多く、約束の地に増やすことを約束されました。その後、ヤコブの時代に、国に飢饉が起こったとき、ヤコブ(イスラエル)と、その一族はエジプトに下ってゆくことになりましたが、エジプトで、奴隷の身となり400年間、苦しみの生活をおくり、ついに、モーセが出現し、エジプトのパロの前にさまざまな不思議な出来事を見させ、イスラエルをエジプトから開放しました。そして、モーセは、イスラエルを神の山、ホレブに導き、十戒を受けさせましたが、そののち、イスラエル民族は40年にわたり、荒野をさまようことになりました。しかし、モーセの死後、ついに、約束の地に入りました。

この後、イスラエルは、ダビデ王、ソロモン王の治世に、全盛時代を迎え、ダビデ王は、エルサレムを首都に定め、イスラエルの12部族を1つの王国に統一し、また、その子である、ソロモン王はその治世に、壮大な神殿の建設を成し遂げました。その後、イスラエルはイスラエル王国とユダ王国に分裂して、イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされてしまいました。ついで、紀元前586年、ユダ王国も、新バビロニアのネブカドネザルにより、その首都だったエルサレムの神殿を破壊され、ユダヤ人は、バビロン捕囚とされました。しかし、ユダ王国の滅亡の約50年後、ペルシャの王、クロスはユダヤ人の開放を宣言してエルサレムへの帰還を許し、神殿を再興するように命令を出しました。エルサレムは、この後、紀元前、538年~142年まで、ペルシャやギリシャによる占領下におかれました。

紀元前、142年~63年には、ユダヤのハスモン家により、政治と宗教の自治が回復されましたが、紀元前63年~紀元313年には、ローマが、この地を支配し、紀元前37年、ヘロデがローマによりユダヤの王に任命され、ヘロデの世にイエス・キリストが誕生しました。   イエスは、ベツレヘムに誕生し、30才の時から、3年にわたり、きたるべき神の国について述べ伝え、病気の人々や貧しい人々を癒し、助けながら、ユダヤの地を巡回しました。エルサレムにおいて、人の罪の贖いとして、自ら、十字架につけられることに甘んじ、ゴルゴダの丘で、十字架にかかって、処刑されました。こののち、新約聖書には、弟子たちの、復活したキリストとの出会いが伝えられ、キリストの精神に満たされた弟子たちの活躍による、使徒行伝の時代が始まりました。弟子たちは、キリスト教を、エルサレムからローマまで伝え、キリスト教は、中世のヨーロッパの精神文化の土台となりました。こんにち、ローマのバチカンには、キリスト教をローマまで伝えた、ペテロやパウロの像が建っています。また、エルサレムには、こんにちでも、ヴィア・ドロロサ(悲しみの道)のような、イエスが十字架を背負いながら歩いた道などの、イエスと弟子達の時代の出来事があった、数多くの場所が、聖地として、保存されています。 また、ヘロデは、この時代に神殿の大補修を行いましたが、紀元70年、エルサレムとその神殿は、ティトスの指揮したローマ軍に、完全に破壊されてしまいました。エルサレムの西壁(嘆きの壁)は、これらの時代の神殿の城壁の一部で、現在、ユダヤ人が、祈りを捧げる聖なる場所となっています。 こののち、エルサレムは、ローマのコンスタンチヌス帝が、キリスト教に改宗したことや、ビザンチン帝国が樹立されたことなどにより、キリスト教徒の支配下に置かれました。

しかし、紀元610年頃、イスラム教がサウジアラビアに起こり、アラブ人が勢力をもち始め、教祖、マホメッドの死後、アラブ人は、エルサレムを征服し、1099年まで支配しました。紀元638年、第2代カリフの、オマルは、エルサレムに入城しました。また、691年には、ウマイヤ朝カリフ、アブド・アルマリクは、エルサレムに岩のドームを建てました。このドームの内部の中央には巨大な石が置かれており、預言者モハメッドが、この場所から昇天したとの伝説があります。また、ユダヤ教の開祖、アブラハムが、神の啓示により、そのひとり子の、イサクを捧げるようにと、その信仰を試みられた場所ともいわれます。  しかし、紀元1099年~1291年頃になると、ヨーロッパ各地から十字軍が聖地を異教徒から奪回するために、エルサレムに押しよせてきました。1099年7月、第一次十字軍は、エルサレムを包囲して攻撃し、ラテン王国を建て、そこに住んでいた非キリスト教徒をほとんど殺してしまいました。しかし1187年、クルド人のサラディンは十字軍を破り、ユダヤ人にも、エルサレムに定住する権利などを与えましたが、サラディンの死後イスラエルは十字軍に奪回されました。 その後、1291年~1516年までは、エルサレムは回教徒のマムルークに支配され、そののち、1517年~1917年までは、オスマントルコに支配されました。
■ホロコースト(holocaust)

元来はユダヤ教の宗教用語である燔祭(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)を意味するギリシア語で、のち転じて、火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった。現在では、第二次世界大戦中のドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を指す。英語では、前者を定冠詞をつけて固有名詞とし(the Holocaust)、後者を普通名詞 (Holocaust) として区別している。動詞としても使用されることがある。

■語源および語の使用の変遷

ホロコーストは「全部 (ὅλος holos)」+「焼く (καυστός kaustos)」に由来するギリシア語「ὁλόκαυστον holokauston」を語源とし、ラテン語「holocaustum」からフランス語「holocauste」を経由して英語に入った語であり、元来は、古代ユダヤ教の祭事で獣を丸焼きにして神前に供える犠牲、「丸焼きの供物」、すなわち燔祭を意味していた。またここから派生した意味に「火災による惨事」があり、一般的にはこちらの方が主に使われていた。のち転じて、全焼死や大虐殺を意味するようになった。

ホロコーストに相当するヘブライ語は「オラー (olah)」であり、「焼き尽くす捧げもの」を意味した。

日本では、永井隆が長崎への原爆投下を「神の大きな御摂理によってもたらされた」とし、原爆投下を「大いなる燔祭(en:Holocaust (sacrifice))」と解釈したことが論評されている。

■ショア

ホロコーストに相当するヘブライ語は「オラー (olah)」だが、特に「ナチスによるユダヤ人大虐殺」を指す場合は“惨事”を意味するショア (השואה) が用いられる。かつて英語では「ジェノサイド」などが用語として一般的だったが、1978年アメリカNBC系列で放映された長編テレビドラマ『ホロコースト 戦争と家族』("Holocaust")が話題となり、流行語となったこの語が「ユダヤ人大虐殺」を表す言葉として普及した。イスラエルでタカ派リクード政権が発足した後、1985年にはイスラエル政府の資金提供を受けた映画『ショア』が制作され、日本では1995年に上映されて以降、「ショア」という用語が普及した。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(独: Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau)は、第二次世界大戦中に、ヒトラー率いるナチ政権が国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所である。

アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた。周辺には同様の施設が多数建設されている。ユネスコは二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年「負の世界遺産」に認定した。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している。

■概要

ホロコーストの象徴と言われる「アウシュヴィッツ強制収容所」とは、1940~1945年にかけて現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外につくられた、強制的な収容が可能な施設群(List of subcamps of Auschwitzに一覧)の総称である。ソ連への領土拡張をも視野に入れた「東部ヨーロッパ地域の植民計画」を推し進め、併せて占領地での労働力確保および民族浄化のモデル施設として建設、その規模を拡大させていった。

地政学的には「ヨーロッパの中心に位置する」「鉄道の接続が良い」「工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する」「もともと軍馬の調教場であり、広い土地の確保が容易」など、広範なドイツ占領下および関係の国々から膨大な数の労働力を集め、戦争遂行に欠かせない物資の生産を行うのに適していると言える。また、次第に顕著となったアーリア人至上主義に基づいた「アーリア人以外をドイツに入国させない」といった政策が国内の収容所の閉鎖を推し進め、ポーランドに大規模な強制収容所を建設する要因にもなった。労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、さらには劣等民族を処分する「絶滅収容所」としての機能も併せ持つ(参考:ホロコースト・ホロコースト否認)。一説には「強制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされており、このため正確な総数の把握は現在にいたってもできていない。

収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者など。その出身国は28に及ぶ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労働力確保(強制連行)により規模を拡大。ピーク時の1943年にはアウシュヴィッツ全体で14万人が収容されている。

たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられた。理由として、ナチスが掲げるアーリア人による理想郷建設における諸問題(ユダヤ人問題など)の解決策が確立されるまで、厳しい労働や懲罰によって社会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、前段階における解決の一手段として捉えられていたこと。

領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産(十分な栄養と休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったこと。1941年末の東部戦線の停滞に端を発した危急の生産体制拡大の必要性と、戦災に見舞われたドイツの戦後復興および壮麗な都市建設計画など、戦中と戦後を見越した需要に対し、膨大な労働力を充てる必要があったことなどが挙げられる。

併せて、劣悪な住環境や食糧事情、蔓延する伝染病、過酷懲罰や解放直前に数次にわたって行われた他の収容所への移送の結果、9割以上が命を落としたとされる。生存は、1945年1月の第一強制収容所解放時に取り残されていた者と、解放間際に他の収容所に移送されるなどした者を合せても50,000人程度だったと言われている。

すべての強制収容所はヒムラーによってSSの下に集約されており、SSが企業母体となる400以上にも上るレンガ工場はもとより、1941・1942年末以降の軍需産業も体系化された強制収容所の労働力を積極的に活用。敗戦後は、SSのみならず多くの企業が「人道に対する罪」を理由に連合国などによって裁かれた。
ゲットー(ghetto)は、ヨーロッパ諸都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区である。第二次世界大戦時、東欧諸国に侵攻したナチス・ドイツがユダヤ人絶滅を策して設けた強制収容所もこう呼ばれる。 アメリカ合衆国などの大都市におけるマイノリティの密集居住地をさすこともある。

■ゲットーとは

ゲットーの名称は、主に以下の4つの文脈で用いられるが、本来は、中世ヨーロッパにおいてユダヤ人が法律によって居住を強制された市街地区を指す言葉であった。本記事では主に、この中世ヨーロッパの諸都市に設けられたユダヤ人強制居住区域としてのゲットー、ならびに、ナチス・ドイツによって復活された強制収容所としてのゲットーについて記述する。

中世の西欧・南欧諸国で、都市の中でユダヤ人が強制的に住まわされた居住区。キリスト教徒の支配者の支配が及ばないという、宗教的な意味を持っていた。宗教弾圧の象徴。

ドイツが第二次世界大戦中東欧諸国に侵攻した際に、ユダヤ人を強制的に移住させた地区。

東欧のシュテットルや、ユダヤ人が自然と集住してコミュニティーを作った地区をこう呼ぶことがある。特にロシア帝国のユダヤ教徒居住区と、特にチェルニウツィー、レンベルク(現リヴィウ)といった大都市のユダヤ教徒地区は、様々なユダヤ教徒への差別化政策(居住地制限など)が採られたため、このような通称で呼ばれることがある。

転じて、少数民族など特定の社会集団が住む地域を呼ぶことがある。アメリカ合衆国においては主にアフリカン・アメリカン(黒人)の居住区をさす。

■ゲットーの語源

「ゲットー」(ghetto)の語源については諸説ある。
ヴェネツィア・ゲットーが設置された大砲鋳造所(ヴェネツィア方言で「Gheto」)に由来する[1]。
ヘブライ語で「分離」を意味する「ghet」に由来する。
イタリア語で「小地区」を意味する「borghetto」に由来する。
ドイツ語で「格子」を意味する「gitter」に由来する。

■ユダヤ人強制居住区域

ゲットーが形成されたのは、文化的、宗教的に少数派であるユダヤ人が中世ヨーロッパにおいて異質なものとしてみなされたためである。結果としてユダヤ人は多くの都市で厳しい規則のもとに置かれた。ゲットーは時勢によって性格を異にし、ヴェネツィア・ゲットーのように比較的裕福な住民が集まるものがあった一方で、ひどい貧困状態にあり人口増加にともなって街路が狭く住宅が高層密集するものも存在していた。ポグロムから身を守るために内側から、あるいはクリスマスや過越そして復活祭の際にユダヤ人が出てこられないように外側から、ゲットーの周囲には壁が築かれた。

■歴史

起源

古代のアレクサンドリアやローマなどにはすでにユダヤ教徒の巨大居住区が存在していた。中世ヨーロッパ前期やイスラム圏でもユダヤ教徒居住区は存在した。しかしこれらは強制されてできたものではなく、ユダヤ人が自らの意思で集まって出来た居住区であった。何か制限が課せられるといったことも無かった。
しかし1096年の第1回十字軍遠征以降、ヨーロッパでは十字軍遠征のたびにユダヤ人は迫害を受け、また社会不安が高まるごとにユダヤ人は迫害の対象とされていった。13世紀後半以降、まずドイツでユダヤ人の強制隔離が実施されるようになった。こうしてできたユダヤ人の強制隔離居住区は、周囲が壁で囲まれ、出入りが制限され、また黄色の印などユダヤ人であることを示すマークを付けさせられるなどの様々な制限が課せられていた。
14世紀のペスト大流行でペストを持ち込んだとされたユダヤ人への迫害が強まり、ヨーロッパ中でユダヤ人の隔離政策が取られるようになっていき、ユダヤ人隔離居住区は教会から離れた場所に設けられることが一般化した[1]。この頃にできたユダヤ人隔離居住区としてはフランクフルト・アム・マインのユーデンガッセやプラハのヨゼフォフが特に有名である。もっともこれらは創設当時ゲットーとは呼ばれていなかった。

ゲットーの法制化と拡大

はじめてゲットーと呼ばれるようになったユダヤ人隔離居住区はヴェネツィア共和国のヴェネツィア・ゲットーである。1555年には反ユダヤ主義者のローマ教皇パウルス4世がヴェネツィアのゲットーを真似てローマ・ゲットーを創設した。これを機に教皇領中にゲットーが創設されるようになり、1562年には「ゲットー」の名称が公式に法文化された。
その後、ヨーロッパでは、数世紀にわたって、大半の国々で同様のゲットーが築かれることになった。
この頃のゲットーは、ほとんどが石壁に囲まれ、夜になると外部との門が閉じられ、昼でもユダヤ人がゲットーの外に出る際にはユダヤ人であることを示す印を身につけることが強制された。また、ゲットーの内部では、ユダヤ人はある程度の自治権を得ていたものの、人口の増加に伴う居住地の立体化、高密度化により衛生状態が次第に悪化し、スラム化する地域も数多く現れた。

ナポレオンによるゲットーの解放

フランス革命後、18世紀末以降西ヨーロッパ諸国では、フランス革命ならびに当時の自由主義運動を背にしたナポレオンがユダヤ人解放とともに各地のゲットーを解放した。1870年ごろにはローマのゲットーが、ヨーロッパに残る、法文による最後のゲットーとなっていた。しかし、ナポレオン失脚後、再びユダヤ人の生活には制限がかけられるようになり、アメリカへ移住するユダヤ人が大量に生まれることになった。また、他方でロシアや東欧諸国のゲットーは20世紀にいたるまで存続した。

ポーランド

特筆すべきは、第二次大戦でドイツに占領されるまでポーランドにはユダヤ人自治区「シュテットル」こそあれ、「ゲットー」というものがまったく存在していなかった事実であろう。右上の写真のクラクフのカジミェシュ地区のように、シュテットルのすぐそばに国家にとって大事な立場にある教会が建てられていることもあった。13世紀のカリシュの法令以来ヨーロッパの他国と異なり民族的に寛容な政策を国家・社会の根幹となす伝統としていたポーランドでは、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができた。その旧市街でさえもユダヤ人居住制限が近世にどんどん緩和されていった。

ナチスによるゲットーの復活

第二次世界大戦時、ナチスはユダヤ人を非常に狭い地域に押し込めるために、東欧諸都市に「ゲットー」を復活させた。1939年以降、ナチスはポーランド国内のユダヤ人を大きな都市の特定地域に移動させ始め、1940年10月には占領下最大規模のワルシャワ・ゲットーが設けられるなど、多くのゲットーが1940年から1941年にかけて設定された。
その後、ゲットーはホロコーストにおける事実上の強制収容所となった。ゲットーの生活は過酷を極め、伝染病や飢餓などによって数多くのユダヤ人がその命を落とした。1942年、ナチスはホロコーストの絶滅収容所へ強制移送を始める。ヨーロッパ各地のユダヤ人が東欧のゲットーもしくは直接に絶滅収容所へ移送され、ワルシャワ・ゲットーからだけでも52日間で30万人もの人がトレブリンカ強制収容所へ移送された。ワルシャワ・ゲットー蜂起をはじめとして、いくつかのゲットーでは武装蜂起が発生した。しかしどれも失敗に終わり、ゲットーのユダヤ人はほぼ完全に殺害された。

ナチスによるゲットー

第二次世界大戦中の1940年以降、東欧諸国に侵攻したドイツは、占領地にゲットーを設けて、現地のユダヤ人を強制的に移住させた。特にポーランドに侵攻・併合した後、ワルシャワのユダヤ人に居住を強制したゲットーはワルシャワ・ゲットーの名前で知られている。ワルシャワ・ゲットーは38万の住人を抱えるナチス占領下ヨーロッパで最大のゲットーとなった。ワルシャワ・ゲットーのほかにも、当時は数多くのゲットーが存在していた。
ゲットーは出入り禁止とされ、ユダヤ人たちは、ダビデの星を腕などにつけさせられ、1942年の移送と1943年の親衛隊少将ユルゲン・シュトロープによるゲットー掃討でトレブリンカやアウシュヴィッツ等のユダヤ人強制収容所に移送されるまでそこに住んだ。監視が厳しく、外は高く厚い壁と脱出防止の電線や有刺鉄線が敷かれ、逃亡を見つけられたユダヤ人はみな射殺された。
ゲットーの中は悲惨な状態であった。ワルシャワでは人口の30%が市域の2.4%に住まわされ、平均して一部屋に9.2人が暮らす密集具合であった。かつて5家族が生活していた空間に700人が暮らすゲットーもあった。ワルシャワで配給される食料は、ポーランド人一人当たり669kcal (2,800kJ) 、ドイツ人一人当たり2,613kcal (10,940kJ) であったのに対し、ユダヤ人一人当たりでは253kcal (1,060kJ) であった。しかし外出することが許されなかったためこの食料に頼るしかなかった。下水設備などはほとんどなく、密集した生活環境と極端な食料不足により、伝染病の流行や飢餓で何十万もの人が死に至った。それでも、中にいたユダヤ人たちは少しでも前の生活に戻ろうと、学校や診療所を設けたり、コンサートを開いたりもした。ゲットーの外では非ユダヤ系ポーランド人たちによって「ジェゴタ」の暗号で呼ばれる秘密組織「ユダヤ人救済委員会」が設立され、彼らはありとあらゆる手段でゲットーのユダヤ人たちを支援した。イレーナ・センドラーや、1990年代にポーランドの外相となる若き日のヴワディスワフ・バルトシェフスキもジェゴタの中心メンバーで、ゲットー内のユダヤ人を助けようと必死に活動した。(ユダヤ人救済活動が発覚すればドイツ人によってその場で銃殺されることになっており、自分だけでなく家族もドイツ人によってすべて殺される可能性があった)。
子どもの権利条約の元になった「子どもの権利」の提唱者、ヤヌシュ・コルチャックとその孤児院の子どもたちもここから、トレブリンカ強制収容所に送られた。

■その他のゲットー

大都市に存在する貧困層の密集居住地域を「ゲットー」と呼ぶことがある。

アメリカ合衆国

アメリカ合衆国では、ニューヨークやサンフランシスコなど大都市にゲットーと呼ばれる地域が存在する。居住者は貧困層に属するアフリカ系アメリカ人(ハーレムなど)やプエルトリコ人、ラテン系アメリカ人、アジア系アメリカ人の人々である。シカゴ学派都市社会学者のルイス・ワースによる研究をきっかけとして、これらの移民系密集居住地区が「ゲットー」と呼ばれるようになった。

ジャマイカ

ジャマイカでは首都キングストンにトレンチタウンなどのゲットーと呼ばれる地域がある。
ウワディスワフ・シュピルマン(Władysław Szpilman, 1911年12月5日ソスノヴィェツ - 2000年7月6日)は、ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、作曲家。長男のクリストファー・W・A・スピルマンは日本近代右翼思想の研究者で、九州産業大学教授である。

幼少時からフランツ・リストの弟子であったヨセフ・ミスドヴィッチとアレクサンデル・ミハロフスキにピアノを学んでいる。ワルシャワのショパン音楽院でピアノを学び、20歳からベルリン音楽大学でレオニード・クロイツァーとアルトゥール・シュナーベルに師事した。しかし、1933年、ヒトラーが政権を掌握したことにより2年でポーランドへ帰国。ワルシャワでポーランド放送のピアニストとして音楽家活動を始める。

この時代、シュピルマンはクラシック音楽の演奏活動のほか数多くの大衆音楽を作曲、自らも演奏した。なかでも彼が作曲し、カジミェシュ・ヴィンクラー(Kazimierz Winkler)が作詞した明るいジャズ調の歌謡曲『ワルシャワの赤いバス』("Czerwony Autobus")は現在でもポーランド人が最も愛する曲の一つとして現在でもよく歌われており、ポーランド人はこの歌とともに戦前の美しいワルシャワの街を想像するのである。この曲は著作権もすでに切れており、現在では動画サイトの発達によりYoutubeなどで視聴できる。ワルシャワの市バスの色は赤が基調で、現在では上半分を白にしてポーランド国旗を表す場合と、上半分を黄色にしてワルシャワ市旗を表す場合がある。

1939年にヒトラーのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。ドイツ占領下のポーランドでナチス・ドイツによるユダヤ人への大量虐殺(ホロコースト)を目の当たりにする。家族全員が絶滅収容所送りとなり、ワルシャワ蜂起後の廃墟を逃亡する中を、ドイツ軍の将校ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉によって命を救われた。

戦後はポーランド放送へ復職。1946年に戦時中の体験をまとめた「ある都市の死」を出版し、2002年にはこれを原作とした映画『戦場のピアニスト』(原題:The Pianist)が公開された。
2000年に脳溢血で入院中に死去。

世界中で2000回以上の演奏活動を行なうとともに、戦前から戦後にかけて、数多くの映画音楽、管弦楽作品、大衆歌、ポピュラー音楽を作曲して、ポーランドの大衆音楽史にその名を残した。作曲は一部フランツ・シュレーカーに学んだとも言われているが、実際のところは彼の音楽の人気は管弦楽にとどまらず大衆音楽におよんでおり、ずっと幅広いジャンルで活躍している。1972年までに500曲を作曲し、そのうち幼児・児童向けの愛唱歌やポップスも含め約100曲は現在でもポーランド人なら誰でも知っているほどの、ポーランド音楽のスタンダードナンバーである。1961年にはオーガナイザーの一人としてポップスの祭典「ソポト国際音楽フェスティバル」を初開催、日本ではあまり知られていないが毎年夏に開催されるこの音楽祭は、ユーロヴィジョンと並ぶヨーロッパ最大の音楽祭の1つとなっている。1963年に結成したジャズ・ポップス・クラシックなど幅広いジャンルを扱うワルシャワ・ピアノ・クインテットの初代メンバーの1人としては1986年(75歳)まで国内外で精力的に演奏活動をし、彼はポーランド国民から最も愛された音楽家の1人であった。
人間を、民族や宗教の違いで差別、迫害、虐殺することが罪であることは、たいていの人が知っている。だが、迫害が国家規模ともなれば、それに抵抗するには勇気がいる。シンドラーや、杉原千畝(すぎはら ちうね)は、そのような勇気を備えた人物であった。

ドイツの実業家オスカー シンドラーは、強制収容所に送られるはずだった多くのユダヤ人を、自分の工場に雇い入れることで、命を救った。さらに、ドイツの敗戦が濃厚となった1944年秋、シンドラーは、工場を故郷のチェコに移転することを計画。このとき作成された従業員リストは『シンドラーのリスト』とよばれ、1200人のユダヤ人の命を救った。シンドラーは戦後イスラエルに招待され、『正義の人賞』が贈られている。この逸話は、スピルバーグが制作した映画『シンドラーのリスト』によって、広く知られることとなった。この映画は、あえて、モノクロフィルムを使い、作り手の感情を抑えた淡々とした描写で、深いリアリズムを実現している。作品の評価も高く、作品賞をはじめアカデミー賞7部門を獲得した。

杉原千畝(すぎはら ちうね)は、日本のシンドラーと言われる人物である。ドイツがポーランドを占領したさいに、多数のユダヤ人が隣国のリトアニアに逃れてきた。彼らは、日本の領事館にもおしかけたが、日本経由で外国に逃れるための通過ピザを取得するためであった。日本の通過ビザの発給条件は厳しいものだったが、リトアニア領事館員の杉原千畝は、ほとんど無制限にビザを発給した。その数は数千枚を超えるといわれる。こうして、多数のユダヤ人の命が救われた。杉原千畝もまた、戦後、イスラエルから『正義の人賞』が贈られている。



残酷な歴史に消えて行った多くの命。

かけがえない生命を救った勇気。

人間の持つ強靭な意志が、新たな歴史を切り拓いてゆく。

その強さに敬服する。
『ローズマリーの赤ちゃん』や『チャイナタウン』、『テス』で知られるロマン・ポランスキー監督が、実在したポーランド人ピアニスト、シュピルマン氏の自伝に、自身もポーランド人でありゲットーから脱出し戦争を生き延びた苛酷な体験を重ね合わせて撮ったのが『戦場のピアニスト』。

ナチスの残虐な蛮行にも派手な演出をさけ、ありのままに描いているところがまたリアルで見ている者に恐怖を与える。

■解説

ナチス占領下のポーランドを生き抜いた実在のユダヤ人ピアニストを描いたドラマ。監督・製作は「ナインスゲート」のロマン・ポランスキー。出演は「マリー・アントワネットの首飾り」のエイドリアン・ブロディ、「ブレイド2」のトーマス・クレッチマン、「私家版」のフランク・フィンレイ、「リタと大学教授」のモーリン・リップマン、「リトル・ヴァンパイア」のエド・シュトッパルト、「オーロラの彼方へ」のジェシカ・ケイト・マイヤーほか。

2002年カンヌ国際映画祭パルムドール(最優秀作品賞)、英国アカデミー賞最優秀作品賞・最優秀監督賞、米国アカデミー賞最優秀監督賞・最優秀主演男優賞など、多数受賞。

■あらすじ・ネタバレあり

1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻。

ワルシャワのラジオ局でピアノを弾いていたウワディスワフ・シュピルマン(エイドリアン・ブロディ)とその一家は、ユダヤ人に対するゲットーへの移住命令により、40年、住み慣れた我が家をあとにする。

ナチスの虐殺行為がエスカレートする中、ウワディスワフはカフェのピアノ弾きとして日々を過ごす。

42年、シュピルマン一家は大勢のユダヤ人と共に収容所へ送られるが、ウワディスワフは警察の友人の手で一人収容所行きを免れた。

43年、ウワディスワフはゲットー脱出を決行。

旧知のポーランド歌手ヤニナ(ルース・プラット)の手引きで隠れ家に移った彼は、僅かな食料で食いつなぎひっそり暮らし続けた。

だが隣人に存在がバレて脱出、親友の妹ドロータ(エミリア・フォックス)と彼女の夫のもとを訪ね、新しい隠れ家に住む。

夏になる頃、ワルシャワ蜂起が始まり街は戦場となった。

ある晩とうとう、ドイツ軍将校(トーマス・クレッチマン)に見つかってしまったウワディスワフ。

彼がピアニストてあることを告げると、将校は彼にピアノを弾かせた。

演奏に感動した将校は、ウワディスワフをかくまってやり、その数週間後に終戦が訪れるのだった。




恐怖と感動、残酷な歴史、夢のような希望。

エイドリアン・ブロディの哀しげな表情が印象に残る。
■石上玄一郎の『彷徨えるユダヤ人』があるが、この「さまよえるユダヤ人」が今日の世界の大多数を占めるユダヤ人ではなかった。


■アーサー・ケストラー『ユダヤ人とは誰か』1990 三交社 宇野正美 訳 


■ モーセの出エジプト以来、ダビデも預言者エレミアもハスモン王朝も、「タルムード」もカバラ神秘主義も「ゾハール」も、マホメッドもマイモニデスらの地中界ユダヤ人も、これらはセム系の「モーセの民」としての動向だった。これらは総じてユダヤ思想とかユダヤ主義とよばれてきたものである。その黄金期はだいたい11世紀までのことだった。

 やがて「さまよえるユダヤ人」はいったん歴史の主舞台から姿を消し、やがてスファラディと呼ばれるようになった。なぜそうなったかといえば、度重なる十字軍の動きとキリスト教社会の矛盾に満ちた波及とともに、ロシアを含む全ヨーロッパでユダヤ人に対する追放や弾圧が始まった。多くのスファラディがスペインやポルトガルに逃げのびたことは上に述べたとおりだが(強制的に改宗させられた者も多く、そのため隠れユダヤとしてのマラーノが生まれた)、15世紀にはその逃げのびたユダヤ人がまたイベリア半島からも、フランスからも追放された。

 16世紀になると、イタリア、ドイツ、中央ヨーロッパの各地に次々にゲットーができ、それが許容できないユダヤ人は集団でイギリスやアメリカに渡った。なかで比較的寛容なオランダ移民派のスピノザが『エチカ』を書いたのは、まさにこの時期である。そのスピノザを、ヨーロッパは冷たい沈黙で迎えたものだ。

 こうしてスファラディは、むろんやむなくというべきだが、一方では改良主義に走り(モーゼス・メンデルスゾーンの改革派ユダヤ主義など)、他方ではゲットーを出て過激に走らざるをえなかった(ハシディズムの再燃など)。

 近代に向かった「モーセの民」を待っていたのは、さらに複雑な動向である。
 フランス革命がヨーロッパの精神を塗り替え、ついでナポレオンがヨーロッパの地図を塗り替えると、ユダヤ人を抱きこむ国があらわれて、いったんユダヤ人の“はかない春”がおとずれそうにもなったのだが、同時にユダヤ教など認めないという複雑骨折が次々におこっていった。

 つづくナポレオンのロシアでの決定的敗北以降は、ヨーロッパ各国は「国民国家」の形成にむけて動き出して、ユダヤ人という人種問題などまったく顧みられることがなくなっていく。そういうときに、ロマノフ朝が支配を確立したロシアで、ユダヤ人の大量虐殺(ポグロム)が断行された。

 かくして、もはやスファラディの純血はこれを守るすべがないほどに攫き乱され、アシュケナージとの交じり合いもおこりはじめた。実はマルクスやバクーニンが登場してきた時代は、こういう時期だった。ということは、これでおよその見当がつくと思うけれど、コミュニズムやアナキズムは、資本制社会や国民国家や人種差別に対する総合的なアンチテーゼだったのである。

 20世紀はユダヤ人がどのように現代社会にユダヤを定着させるかという政治行動と哲学思想の時代になる。

 たとえばシオニズムが吹き荒れ、マルティン・ブーバーのユダヤ実存主義が生まれ、フロイトやアインシュタインによる意識革命のプランや科学革命のプランが噴き出してきた。

 ここにいたって、スファラディによって創意されてきたユダヤ主義は、大量のアシュケナージと混成していくことになった。

 1948年にイスラエルが建国されたとき、その原動力になったのはほとんどアシュケナージだった。建国後、スファラディがイスラエルに入ってきた。しかし、スファラディとアシュケナージは全く別の“人種”だったのである。

 では、今日のユダヤ人の90パーセントを占めるアシュケナージとは何なのか。

 ケストラーによると、アシュケナージとカザール(ハザール)人の歴史は重なっている。そして、この歴史こそがヨーロッパの裏側のシナリオの解読にとって最も重要なものだという。

 375年をさかいに、フン族をはじめとする民族大移動がユーラシアを動きまわった。このときビザンチン帝国の使節はフン王アッチラに親書を送り、戦士部族としてのカザール人の存在を報告した。歴史上、初のカザール人の登場である。

 フンの王国が崩壊すると、カザール人はコーカサス北部を中心にしだいに勢力を拡大していった。首長はカガンと呼ばれた。ついで広大な草原にトルコ民族の突厥(チュルク)が出現すると、カザールの民はいったん突厥の支配下に入り、アバール・ハーン王国を名のった。そのうちビザンチン帝国の版図の拡大にともなって、ビザンチンとカザールとのあいだに軍事同盟ができ、コンスタンティヌス5世がカザールの王女を娶り、その息子レオン4世が“カザールのレオン”としてビザンチン帝国の皇帝の座についた。

 その直後の740年ころ、カザールはユダヤ教に集団改宗した。理由ははっきりしない。ともかくカザールの民はいっせいにユダヤ化してみせたのだ。ノアの3番目の息子のヤペテを始祖とする“血の伝承”に関する見方もこのころにつくられた。

 しかし、その血統は実際にはセム系ではなく、白色トルコ系であり、その気質はあきらかに遊牧民族系だった。

■カザール国

 こうして、カール大帝が西ローマ帝国を治めたときは、ロシア・トルコ地域には、キエフ王国とユダヤっぽいカザール王国(首都イティル)の二つの勢力がが相並んでいたということになる。

 そのカザール王国の盛衰に終止符が打たれたのは、1236年にモンゴル軍が侵攻し(いわゆる「タタールのくびき」)、1243年にキプチャク・ハーン国が成立したときである。カザール人はバトゥ・ハーンの支配となって、ここに王国は滅亡した。

 しかしケストラーは、このあとにカザール人がロシアから東欧に移動して、のちにアシュケナージとよばれる親ユダヤ的な中核をつくったと推理して、そこにブルガール人、ブルタ人、マジャール(ハンガリー)人、ゴート人、それにスラブ人が交じっていったと判断した。
ケストラー自身がハンガリー生まれだったのである。

 黒海とカスピ海に囲まれた地域を中心に広がった半径のなかにいたカザール人が、しだいにマジャールやブルガールと交じっていったことは、その後のユダヤの歴史をひどくややこしくさせている。

 まずカザール・ディアスポーラは、東欧にかなり高密度な集落をつくっていった。これはゲットーではない。自主的なコモンズで、もっぱら「シュテトゥル」と呼ばれた。この集落がロシアの地からの拡張にともなってしだいにポーランドのほうにも移行して、やがて「ユーデンドルフ」(ユダヤ村)と総称された。そのユーデンドルフに、それまで離散していたユダヤ人が少しずつ加わった。そこには”本来のユダヤ人”(セム系ユダヤ人)やスファラディも交じっていた。

 ここからはハウマンの記述が詳しいのだが、こうして、ポーランドが東方ユダヤ人の原郷とされていったのだ。これこそ、モーセ以来のセム系ユダヤの十二支族にもうひとつが加わることになった「第十三支族」なのである。

 けれども、そのポーランドこそは近現代史の悲劇の舞台であった。ポーランドはたえず分割された。そしてそのたびに「第十三支族」が影のシナリオを担わされていった。これはかつての「さまよえるユダヤ人」ではなく、新たな近現代の「さまよえる複合ユダヤ人」の物語なのである。

 これでおおざっぱなことは展望できたとおもう。ともかくも、こうして地球上をしだいに占めるようになったアシュケナージの動向は、「モーセの民」をも巻きこんだまま、今日の今日にいたるまで、イスラエルの中でも、イスラエルの内外でも、血統・勢力・宗旨・言語・風習をめぐる重大なキーをもったまま、国際政治の荒波での浮沈をくりかえす一団というふうになったのである。

 ふりかえってみると、スピノザもマルクスも、カフカもブーバーもサルトルも抱えた“ユダヤ人問題”には、いくつもの難解な特徴があった。

 3点だけ、ここではあげておく。

 第1に、「モーセの民」と「タルムードの民」は必ずしも一致していないということだ。本来のユダヤ教は「旧約聖書」と「ゾハール」と「タルムード」が聖典であるが、アシュケナージは「タルムード」しか読まない。

 第2に、言語の問題がある。「モーセの民」はヘブライ語の民である。ところがディアスポラのユダヤ人は各地でその地域の言語を編集して、新たな“ユダヤ風の言語”をつくった。それが10世紀ごろに確立されたイディッシュ語である。ドイツ語を基盤に、そこに「タルムード」の単語や句を交ぜた。これが大流行した。アシュケナージは主としてイディッシュ語をマメ・ロシュン(母語)とした。さきほどのユダヤ・コモンズ「シュテトゥル」もイディッシュ語である。

 いまではイディッシュ文学という独自の領域もある。日本でも森繁久弥がテヴィエに扮して当たったミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の原作者ショーレム・アレイヘムはその一人だった。ウクライナ生まれのアシュケナージだった。

 ちなみにシャガールは20世紀で最も有名なアシュケナージの画家だったのだ。

 第3にハシディズムやシオニズムの問題がある。ハシディズムはポーランドのバアル・シェーム・トーヴ(略称ベシュト)によって提唱された。18世紀である。神との交流による恍惚を謳った。

 トーヴの活動はやがてハシディズム(敬虔主義)とよばれ、南ポーランド全体に広がっていく。が、ポーランド分割の悲劇がこの活動に終止符を打たせた。

 シオニズムは選民思想である。しかし、そこにはシオニズムが投入されざるをえなかった苛酷な前段がある。

 1855年にジョセフ・ゴビノーの『人種の不平等』がユダヤ人であること自体を悪とする人種差別思想をまきちらし、1881年にキリスト教社会党を組織したアドルフ・シュテッカーが「ドイツのユダヤ化」を激しく非難したパンフレットを連打、1903年にセルゲイ・ニールスが『シオンの議定書』を書いてユダヤ人が世界支配の計画と陰謀をもっているというデッチアゲをして、これらが流布された。

 こうした異常な反ユダヤ主義(アンチセミティズム)がヨーロッパを席巻した。

 この悪影響はわれわれの想像を絶するもので、心あるユダヤ人たちにいわゆる「ユダヤ人の自己嫌悪」をもたらし、このアンビバレンツな感情はハインリッヒ・ハイネを嚆矢に、オットー・ヴァイニンガー、フロイト、フッサールに及んだものだった。

 この反ユダヤ主義に対して、レオン・ビンスケルが『アウト・エマンツィパツィオーン』(自力回復)を提唱する。ユダヤ人は同化されえず、自らも民族的ホームを求めるべきだというものだ。

 モーゼス・ヘスも『ローマとエルサレム』でユダヤ倫理にもとづいたユダヤ人国家をつくるしかないと説き、ヒルシェ・カーリッシュが『シオンを求む』でイスラエルの地での再民族化の機会をもつべきではないかと説いた。

 そこへドレフェス事件やエミール・ゾラの勇気ある活躍があって、ユダヤ人を認めるべきだという西ヨーロッパにおける機運がわずかに盛り上がってきた。テオドール・ヘルツルがシオニスト会議を提案した背景には、以上のような流れが渦巻いていた。

 ヘルツルのシオニズム運動は挫折するけれど、その方針は受け継がれて結局はイエラエル建国に結びつく。

 以上、わずか3点だけ取り上げてみたが、これらはいずれもアシュケナージの奥にスファラディの歴史的宿命を窺うというていの問題ばかりである。

 ユダヤ人問題というのは、とうていわれわれが観測しきれるものではない。しかし、ときどきはこの問題にひそんでいる壮絶な意味を覗いてみることは、日本や日本人を考えるときのヒントになることがある。

 たとえば数年前、WJC(世界ユダヤ人会議)の会長ナフム・ゴールドマンが「ユダヤ人にとって良い時は、ユダヤ教にとって悪い時になる」と発言していたことは、強烈な暗示力をもっていた。

 その後、イスラエルの良心とも呼ばれるヨッシ・ベイリン労働党議員がWJC60周年記念シンポジウムで、「ユダヤ人が個人として活動が自由になっているとき、ユダヤという民族は縮んでいるのだ」と発言していた。何かものすごいことをメッセージされていると思ったことである。

 ユダヤ人の個人と、ユダヤ人という民族と、ユダヤという国家とは別なのだ。そこにはホッブズのリヴァイアサンはあてはまらない。いや、別なのではなく、それを一緒にしようとすると、歴史が必ずそこで逆巻くのである。

 その理由がどこにあったのか。

■ 今日のユダヤ人には大きく2種類あるいは3種類がある。日本人のわれわれはこの相違がよくわかっていない。

 ひとつは「スファラディ」(スファルディ)のユダヤ人で、旧約聖書にアブラハム、イサク、ヤコブの子孫として歴史に登場する「モーセの民」である。スペインを意味するヘブライ語「スファラッド」を語源とする。
 これがふつうは“本来のユダヤ人”だとみなされている。しかし、かれらは数度にわたるディアスポラ(離散)にあって、1492年までは主としてイベリア半島に定住していた。ここでかれらはスペイン語を改竄した「ラディノ語」をつくる。が、イスパニアでカトリックの力が強くなると(いわゆるレコンキスタ)、主要部族は北アフリカ、オランダ、フランス南部に移動した。
 この移動部隊の多くはキリスト教徒と融合しながら生き延びた。この部隊の“隠れユダヤ人”たちが「マラーノ」である。スピノザやレンブラントはポルトガル系のマラーノの直系だった。

 もうひとつは「アシュケナージ」のユダヤ人で、その多くは東ヨーロッパで多数のコミュニティをつくっていたのだが、ロシアのポグロムやドイツのホロコーストで迫害され、西ヨーロッパあるいはアメリカに移住した。
 アシュケナージとは、ドイツを意味するヘブライ語の「アシュケナズ」から派生した呼称である。
 このアシュケナージはもともとはカザール人と重なっていた。かれらはやがて東欧に動いてドイツ語を改竄して「イディッシュ語」をつくった。
 いま、世界中のユダヤ人は1500万人ほどいるというが、そのうちの約90パーセントはアシュケナージだといわれる。しかし、アシュケナージは本来のユダヤ人なのかという問題がある。

 さらに「ミズラヒ」と呼ばれるユダヤ人がいる。しばしばスファラディに含まれて語られることも多いのだが、その一部がアジアに流れていったことに特徴がある。もっとも今日のイスラエルにはスファラディとミズラヒがほぼ半分すづ居住する。

■ユダヤ人とは誰か?

 ユダヤ人とは誰か?簡単な質問のようで、それほど単純ではない。実際にいろいろの定義が挙げられたりする。現在、一番確かなのは、ユダヤ人の子供がユダヤ人ということである。

 それでは、ユダヤ人とは血縁集団かというと、必ずしもそうでもない。誰でもユダヤ教に改宗することによって、ユダヤ人の一員になる道があるからである。

 ユダヤ人の国と言われるイスラエルでも、ユダヤ人の認知が、時には社会問題になる。非ユダヤ人の婦人がユダヤ教に改宗した場合も、イスラエルではいわゆる正統派ユダヤ教(オーソドックス)以外はユダヤ教と認められていないため、保守派ないしは改革派のラビが認めた改宗ユダヤ教徒は、ユダヤ人ではないことになる。国外で改宗した改革派ユダヤ教徒がイスラエルの裁判所で、ユダヤ人と認められたというので、ビッグ・ニュースになったこともある。

 日本人の場合、日本の国籍をもつ人のことで、「日本人とは誰か」はあまり議論の余地はない。アメリカ人はアメリカの市民権を持った人のことであり、その他の多くの国民の場合もそうである。ところが、ユダヤ人と言われる人々は現在世界の隅々に住んでいるが、当然1つの国に属していたわけではない。長い間、ドイツに住み、あるいは東欧に、またエジプトにと言って、世界のあちらこちらの国に属し暮らしている。従って、国籍が同じ人々ではない。

 イスラエル国家が誕生してから、ユダヤ人なら誰でもイスラエル国に帰還すれば、その人にはイスラエルの市民権が与えられる。しかし、世界のすべてのユダヤ人が、イスラエル国民であるわけではない。アメリカ人のまま、あるいはイギリス国籍のみのユダヤ人も多くいる。(イスラエル以外に住むユダヤ人は、ディアスポラのユダヤ人と呼ばれる)

 また、2000年前のユダヤ国家の子孫というように、現実的に家系をさかのぼれるわけでもない。また、それがユダヤ人の条件でもない。ユダヤ教に正式に改宗すれば、その人はユダヤ人となることができるからである。


■「ユダヤ人=ユダヤ教徒」なのか?

 この定義は、何世代も前ならば、あるいは適切だったかも知れない。しかし、現在ユダヤ人であってもユダヤ教を信奉しないと公言する人もいるし、無神論者だと平気で言う人もいる。

 歴史的には、ユダヤ教がユダヤ人のアイデンティティー(自覚、意識)を保ってきたのは事実であろう。それでも、真面目な学者の中にも、ユダヤ人を宗教的な集団だと定義するのに反対する意見を唱える人もいる。特に近代以後においてそうである。なぜなら、ユダヤ教を捨てた場合、つまりその戒律を守らない場合に、(いま多くのユダヤ人がそのとおり)ユダヤ人とは認めないとなると、大問題となる。

 レンズ磨きの哲学者スピノザは、その独自な思想のために、ユダヤ教の権威から破門された。しかし、彼がユダヤ人でなくなったとは言わない。19世紀ヨーロッパの啓蒙的なユダヤ人で、キリスト教に改宗する人々が出たが、彼らもユダヤ人と見られていた。


■ユダヤ人の定義

 その人が何を信じるか、どんな行ないをするかということは、ユダヤ人の定義には無関係だということをまず再確認しておく必要がある。ユダヤ人に共通しているのは、「ユダヤ人である」という意識をもつ点である。つまり自分がユダヤ的伝統の過去と結びついていることを意識していることである。「ユダヤ人であること(Jewishness)」は、それほど容易に説明できない概念であることを理解しなくてはならない。

 それでは、何がなんだかわけが分からなくなる。

現在もっとも一般的な定義を紹介すると、ユダヤ人とは「ユダヤ人の母親から生まれた人、またはユダヤ教に改宗を認められた人」というのが、イスラエルの帰還法(ユダヤ人と認め、国籍を与える法律)に規定されたユダヤ人である。

 父親がユダヤ人でも母親が非ユダヤ人の場合、子供はユダヤ人ではないと、ユダヤ法は定めている。母親がユダヤ人なら、確実にユダヤ人の血は受け継がれていく。

 父親ではなぜだめなのか。子供の父親がだれかは母親以外は本当に分からないから、というのがユダヤ教の考え方である。また、ユダヤ教は家庭教育を重視するが、母親がユダヤ教を子供に伝える役目をになっているから、ということもあるだろう。

 イスラエルでは、ユダヤ人の認知が、時には社会問題になる。母親がユダヤ人でないので、イスラエル人であっても、ユダヤ人と認められない人が出てくる。


複雑ですね。