アンダーグラウンド 村上春樹 | 渋谷宙希のブログ

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1995年3月20日

東京の地下鉄で大惨事が起きる。

日本中を震撼させたオウム真理教における毒ガス兵器サリンを使った無差別殺人事件。

当時、自分は高校1年生で、正直言って東京でなんか大変なことが起きているなぁ。

と、テレビの中の出来事としてしか認識していなかった。

当時の地下鉄で一体何が起きたのか?村上春樹がそれを知るために事件の当事者62人にインタビューをしてまとめたのがこの本です。

実際にサリンの被害に合った人を中心に当時の生々しいリアルな状況を読んで、本当に恐ろしくて、驚愕した。

通勤電車に乗っていただけの人々は気が付けば気分が悪くなり、視界は暗くなり、知らない間に事件の被害者になっていく。一体自分に何が起きたのかもわからないまま。

被害に合った人の意見で共通しているのは「視界が暗くなった」というもの。これは縮眼というそう。瞳孔が萎縮して視界が暗くなるのだそう。この症状はほぼ全員の人に出ている。

事件当日はとてもいい天気で、まさに雲ひとつ無い青空だったのに、なぜだか視界が暗く曇っているように感じた人が多かった。

縮眼以外で多いのは、気分が悪くなる。ものすごい寒気を感じる。など。

体に異変を感じながらも、ほとんどの人は会社へ向かうとする。

まさに「這ってでも」という感じで。なんとしてでも会社へ向かう人が多いことに驚いた。

自分も体調が悪くて、周りにも倒れている人がいたり、しゃがみこんでいる人がいたりしているのに、なぜかその時は異常な事態が起きているとはほとんどの人は思わなかったそうです。

中には異変に気づき、周りにいる倒れている人を介抱したり、病院へ運ぶための手伝いをしたり、一刻も早くここから逃げないと、と思う人もいたようだが、実際にはほとんどの人は会社へ行こうとしたのだそう。

自分がもし似た状況に立たされたらどんな行動を取るだろう?

他人の看病をしてあげることができるだろうか?

少なくとも会社へ這って行こうとはたぶん思わない気がするけど、他人を助ける行動を取れるかはあまり自身がない。

本によると救急車が全て出てしまっていたため、救急車が到着するまでとても時間がかかったみたい。待ってられないので、人々が協力し近くと通っている車を止めて病院まで運んでもらったりと、その場にいた人の協力がかなりあったのも被害を小さくするのに一役かったのではないかと思う。

地下から地上へ上がるとたくさんの人が倒れていたり、嘔吐していたり、口から泡を吹き出したりしている状況だったらしい。これはまさに地獄のような光景だっただろう。でも、数メートル離れたらそこには普通に人々が会社へ向かっていたり、道路でも車が走っている。この落差がこの事件の異常さを現している気もする。

この本を読んで感じたことの一つにはマスコミに対する不信感が被害者の人々に非常に多いということ。旦那さんを事件で亡くされた奥さんは一度テレビのインタビューに応じたらしいのだが、実際に放送されたものを見てとてもガッカリしたという。

マスコミの作る被害者のイメージ。「悲劇の未亡人」そのイメージに合った部分だけを放送され、本当に伝えたかったことは全てカットされていたらしい。

マスコミというのは、ある意味で情報操作を簡単に行うことのできる媒体。イメージの操作なんて編集次第で造作も無い。昔からテレビというものを信用していなかったけど、さらに信用してはいけないものだと感じた。

村上春樹は「目じるしのない悪夢」というタイトルの長いあとがきを書いているがその中で

「マスメディアの基本姿勢は<被害者=無垢なるもの=正義>という(こちら側)と、<被害者=汚されたもの=悪>という(あちら側)を対立させるものだった」

とある。

基本的にはその通りだと思う。これは地下鉄サリン事件の報道だけに限ったことではない。つねにマスコミの報道というのは、このパターンのものが多い。

異常な事件が起きると、どこか異界での出来事のように、異常な人が起こした異常な犯罪。という視線が報道する側にも、それを見る側にもあるように思う。

しかし、それはちょっと違うのではないか?と思う部分もある。

異臭がし、実際に体調に異変をきたしている人がいるにもかかわらずほとんどの人は地下鉄を降りなかった。なぜ降りなかったのか?それは

「とにかく会社に行かなくてはならない」

からだ。

地下鉄の延長線上にある会社や組織に至れば安心することができる。

それは、会社や組織や国家に自分の大切な何かを預けている生きているのではないのか?

日本社会とは。自分の大切な心や魂を自分以外のほかのものに預けて生きる社会ではないのか?

オウム信者はその魂を麻原に預けていたのではないか?

そういう意味では完全に「こちら側」と「あちら側」に分けることはできないのではないか?

この本を読むとそんなことを感じずにはいられなかった。