告示 | 田島浩司と作品―表現する―

田島浩司と作品―表現する―

カタログ&パンフレット

ご挨拶

 

 

暑さ厳しきおり、簡略いたします。

 

 

 

 

 

このたび、世帯主である田島敬夫が6月5日水曜日、救急搬送され、脳出血と診断されました。

 

 

失語症、下半身不随、という結末となりました。

 

 

田島敬夫の一族のかたがた、

 

 

田島文子の一族のかたがた、

 

 

田島家の歴史に関わり携わってくださったかたがた、

 

 

あたたかく見守ってくださり、文子、浩司より厚く恩赦、申し上げます。

 

 

 

 

 

直近の近況から順に説明させていただきます。

 

 

本人の「ゆうちょ」銀行の通帳の記帳から判明いたしました。田島敬夫は、2021年、2022年とでトヨタ・ファイナンスからの確定拠出年金(退職金)150万円の貯蓄を使い尽くしており、急遽、私と私のフィアンセの想い出の品物をブックオフに買い取っていただいて段階的に現金に換金し、私たちの結婚資金と出産費用の全額も足して田島敬夫の約300万円強の未払いを私が納付しました。未払いの納付はその後も続きました。

 

 

田島敬夫は、2023年、2024年と晩日が迫るおり、私が実家にストックして買っておいたパスタやカレーライス、冷凍食品など非常食一式を食べ尽くし続けて生き延びておりました。2024年、私が多忙にしており、実家の非常食の補填を一時的に欠かしました。本人的には実家の食料のストックが枯渇したと早合点を起こし人生の終幕を引く算段であり、マイナンバーカード、運転免許証、保険証、衛星放送を録画した外付けのハードディスク、など、本人証明となる物をすべて次男の誠(まこと)に送付し、息を引き取ろうとしたのですが、死にきれず哀れな末路をたどりました。死の覚悟もその程度の浅はかな覚悟でした。私も命を粗末に扱う人間を尊重しろと言われても尊重はできません。稀代の悪党にかける情けもないように映る私ですが本心は絶句しております。

 

 

恐縮です。

 

 

私が実家に介護に駆けつけた2019年、私が敬夫と文子に作らせていただいた私のオリジナル・メニューのスタ丼、海鮮炒め、特製豚すき鍋、焼きサバ西京&肉じゃが、デミ・ハンバーグ&クリーム・シチュー、ボロネーゼ&スペシャル・ヨーグルト、肉野菜うどん、手作りラーメン、豚しゃぶ、ぶりしゃぶ、を敬夫と文子に食べていただきました。敬夫から『今まで食べたこともない』という驚きの表情を読み取った日のことを昨日のことのように記憶しております。敬夫が私のオリジナル・メニューを食したのは1度きりでした。息子を1ミリも愛していなくとも、執念とも取れる男としての意固地は持っている自己顕示欲・剥き出しの世帯主でありました。敬夫が自己顕示欲を傲慢にふるいかざし逐一、突っ返す負担を考えれば、家族で団欒を囲む行為はそれほどに難しいことであったのかと6月4日の火曜日に父親に語りかけました。敬夫は私の優しさと思いやりに涙を流しておりました。

 

 

敬夫は『自分は貧しくて苦労した』ということを頻繁に口にする男でした。貧しくて苦労したのではなく、生来、物欲と金銭欲の強い男でした。自分が生き延びるためには人の物を盗んでもやぶさかでない、という無慈悲な男でありました。幼少期より窃盗、盗難を断続的に繰り返す生活でした。2018年、文子から盗難した95万円が、本人の「ゆうちょ」の通帳に50万円の入金と45万円の入金とで分割で記帳されておりました。驚くべきは私とフィアンセが敬夫の300万円強の未払いを納付している最中、納付金から預金をかすめとり、13万8千円の2021年製のカシオのチタンの腕時計を無断で購入しておりました。敬夫はその時計をはめて土地で誇示して回っていたということでした。

 

 

最後は『実家を売り飛ばす』と豪語しておりました。実家は事故物件であること、分譲であること、などから100%、買い手が付かない事実を私から敬夫に諭しました。本人は息も絶え絶えに消沈し、黙失しておりました。家として使ってみんなで住むのがいいのではないか、と私から声をかけさせていただきました。ついで言うと要介護認定も数年前、私に手厳しく指摘されてから取得しました。元来、骨惜しみをする男の割には要介護認定の存在も知らなかった男でした。

 

 

私のフィアンセが2018年に婚約のご挨拶をさせていただきたいということで、当時、私から敬夫と文子に原宿まで来ていただきたいと伝えておりました。当時、原宿のギャラリーで私の最新作が展示されていました。原宿まで来ていただいて作品を見ていただき、その後、フィアンセの車で4人で出かけようと伝えておりました。敬夫がこよなくラーメンを愛しており、私たちは横浜のベイブリッジが一望できるラーメンの名店の予約をサプライズで取っていました。土曜日の夕刻、父親が言い逃れをして私たちはお店に無理を申してリザーブを翌日の日曜日までなんとかキープさせていただきました。しかし日曜日の夕刻過ぎも敬夫が『体調が悪いのではなく、行く気がない』との言い逃れを初めて露呈し、婚約のご挨拶の話は流れました。私のフィアンセは、その時、敬夫をどうにか救えなかったのだろうかと悔やんでおります。文子は出席の意志を示してくださってました。当時、私からはフィアンセに、敬夫は文子のことも息子たちのことも一片も愛さない極悪人であることは伝えていました。私のフィアンセは、予約日前に疲れたら車内で仮眠できるようにとクッションとタオルケットを新しく購入し、前立腺の悪い敬夫を気遣いカーナビにトイレの場所を40箇所も打ち込み、クーラーボックスを購入し、車のエアコンの清掃まで念入りにしておりました。

 

 

 

 

 

以上をもって説明の運びとなりました。

 

 

田島敬夫の一族のかたがた、

 

 

田島文子の一族のかたがた、

 

 

田島家の歴史に関わり携わってくださったかたがた、

 

 

常日頃よりの感謝を込めて告示と返させていただきます。

 

 

 

 

 

お話の続きを伺いたいとの時は実家までお越しください。

 

 

折を見て私が実家に帰省いたします。

 

 

その時にお話の続きをさせてください。

 

 

敬夫の一族は同族結婚を繰り返し、『脳動脈瘤(のうどうみゃくりゅう)』が遺伝的に定着した一種異様の一族という解釈をすることもできます。我々が調査をさかのぼって行き、戦前戦後の因習が産み出した単なる事実の1角に過ぎないとの結論にいたりました。師範がおっしゃってましたが、痩せた土地で一族が途絶えていった事実からたどれば戦時中の同族結婚はそれほど珍しいことではなかったということです。その啓示も私から敬夫にできないまま、敬夫は病院へと搬送されました。

 

 

しかしながら、私個人的には恵まれた家族構成であったと自負させていただいております。

 

 

 

 

 

令和6年 7月8日 月曜日

 

          田島文子

 

          田島浩司

 

 

 

 

 

こちら(↓)の写真を撮らせていただいた時には敬夫が次男の誠(まこと)に本人の「ゆうちょ」のキャッシュカードを私的に手渡し、誠(まこと)が敬夫の年金を第1期から引きおろしてお金を使っていた事実を私は知っておりました。道場でみなで食事中のこと、師範が私に『おぬしの父親は通帳を使い分けておるだろ』と申してきました。「はい、何種類かを使っているようです」と私は答えました。『通帳を何枚、使い分けようが「ゆうちょ」のキャッシュカードは1枚じゃからな。調べてみなさい。』と師範に言われました。私もハッと気づくものがありフィアンセと私立探偵を雇いお金の流れから調べあげたら敬夫が自分の年金を第1期から誠(まこと)に引きおろさせて遊ばせている事実の特定にいたりました。誠(まこと)には双子の息子がおり、敬夫が双子の息子に布団を買って差し上げていた事実も私は知っておりました。文子には布団1つ買わなかった男でした。こちらの写真を撮った約2年前、私は文子に離婚を勧めました。のちのちのことを考えれば法的に敬夫の手元に「ゆうちょ」のキャッシュカードを返還させる手段は年金分割しかありませんでした。しかし、文子は敬夫を後ろ盾(うしろだて)に立てるという生き様は変えませんでした。敬夫は本人名義の「ゆうちょ」のキャッシュカードを2枚、保有し使用して来ました。「ゆうちょ」のキャッシュカードを同一人物が2枚、保有し使用することは違法です。「ゆうちょ」の場合、セキュリティーの観点から口座を分ける行為じたいが違法です。郵便局に届け出次第、敬夫の年金の発行は停止となります。私にはどうでもいいことです。文子の唯一の救いは息子の命を授かったことだと私は思います。