- フランチェスコ・コスタ, 森友 典子, 高畠 恵美子
- 鏡の中のアンジェリカ
夏休み、別居中のパパと暮らすために海辺の町にやってきたジャコモ。
誕生日を祝うために、ママとママの親友のティナもやってきた。
パパとパパの恋人のアダ、アダの娘イレーネと、ママとティナとジャコモ。
イレーネにも、「子供を愛のトラブルに巻き込んではいけない」なんて言う大人にも、ジャコモはうんざりしていた。
誕生日を祝うパーティーの時、壁を覆う鏡を見てジャコモは悲鳴を上げた。
そこには、自分の姿ではなく、恐怖の目で自分を見つめる見知らぬ女の子の姿があった……
鏡に、自分ではなく見知らぬ人が映ったら?
プールの水面に自分ではなく、見知らぬ女の子が映ったら?
話し相手の目の中に、自分ではない人が映っていたら?
そして、自分を怯えた目で見つめ返していたら?
ホラーだ!
何だかとっても恐そうだ!
きっと、ジャコモの目に映る少女は、遠い昔に何かで死んでしまった少女に違いない。
どこかで過去への扉が開き、ジャコモが少女を救いに行くんだ!
……なんて、ありきたりすぎるストーリーを勝手に想像しながら読んでいましたが、全然、ホラーじゃありませんでした(笑)
ホラーと言うよりはちょっとしたミステリー。
助けて欲しいと強く願った少女(アンジェリカ)の思いがジャコモに通じ、最終的にはジャコモ(とイレーネ)がアンジェリカを助けるわけですが、アンジェリカは過去の人物ではなく、現代の、普通の女の子。
両親とアダとティナの間で板ばさみになっているジャコモと、両親の離婚トラブルに巻き込まれ、恐怖の日々を過ごすことになったアンジェリカ。
2人に通じる感情が、2人を救うことになったと言うわけです。
友人のジュリオへ宛てた手紙として物語が進むので、とても読みやすいです。ただ、後日談になるので、臨場感には欠けています。
臨場感には欠けても、手紙と言うのは自分の感情を結構ストレートに表現できるもので、ジャコモの両親に対する思いも、素直に表現されています。
ジャコモの両親は、自分達を「パパ」「ママ」とは呼ばせない。自分のことを「ジャコモ」ではなく、「ぼうず」「ぼうや」と呼ぶ。
外国では、両親を名前で呼んだりするのは結構普通なんでしょうか、映画や本の中では、両親をファーストネームで読んだりしていますよね。
お父さんはお父さん、お母さんはお母さんと定着しきっている私には、何だか不思議な感覚ですが、やっぱりそれを寂しいと思うこともあるようで、ジャコモ「パパ、ママと呼ばせてくれたら大満足」と書いてあります。
辛くても辛いといえない子供。
「捨てられた哀れな子供だなん感じていない」と、いつも周囲に示していなければならない子供。
それがどんなに辛くて苦しいことか、当の大人たちは全然分かっていない。
それを歯がゆく思いながらも、大人にそうであるとははっきり言えない、言える状況にない、たとえ言ったとしても理解してもらえないのが子供。
結局、自分で納得して、我慢して、解決していくのは子供。
ジャコモの両親がジャコモのことを本当に理解して、子供のためを思ってくれることがあるんでしょうか。
自分の子供が本当の英雄であるかのように、誇らしげな顔をするけれど、「パパママ」ではなく「ステッラ」「マルチェッロ」であることは変わらないんだろうなぁ……。
ところで、ステッラとティナが見ている映画は「風と共に去りぬ」?