11日土曜日、予定通りに新居浜郷土美術館の「シベリア抑留関係展示会及び抑留体験の苦労を語り継ぐ集い」に行ってきました。
従兄の次男(小学4年生)を一緒に連れて行ったのですが、展示がすべて「過去を知っている人向け」なので、子供に分かりやすく説明するには、私自身の勉強不足もあり、かなり難しい状態でした。
わずかな知識をつなぎ合わせて、「ああ、なるほど」とは思うものの、それを子供に理解させるのはちょっと。
「えーっと、昔、日本が戦争をしていてね、そのときにソ連……じゃなくて、ロシアの捕虜、捕虜って言うのは敵の人たちに捕らえられてしまうことでー……、その、ロシアの捕虜になった人たちが、ロシアって寒いでしょ、日本とは全然、風土や気候が違うでしょ、そんな中で、食べるものも着るものの少なくて、すごくつらい生活をしてね……」
と、かなりしどろもどろな説明で、子供の方は明らかに顔に「?」が浮かんでいました。
唯一、ちょうどテレビで「はだしのゲン」をやったところだったので、「戦争してたのは知ってる、テレビではだしのゲンを見た!」と言っていましたが、展示してあるわずかな生活用品や衣類、絵や写真は今ひとつ、理解出来ないようでした。
袖のないコートが展示してあり、説明に、食べるものがなく、袖を片方ずつ食品に変えたのだと書いてありました。
小さい、薄いコートでした。
こんなコートで寒さが凌げるのか?と思うような。
そんなコートの袖が食品に変ることは、全く想像出来ません。
子供の頃に国語で習ったお話の中に、雛人形をお米に変えたと言う話がありました。後に読んだ本でも、お母さんの着物をお米に変えたとか(←「ほたるの墓」でも変えてましたね)。
人形や着物は綺麗だから、お金に変えることもお米に変えることも可能かなと思いますが、コートの片袖が食べ物に変るとは……。
食べ物に変えられたとしても、それはきっとごくわずか、栄養の足しにもならないようなものだったでしょう。
1食分、もしかしたら1食にも足りないような食べ物。
それを手にいいれられても、今度は、袖のないコートは酷く寒かったでしょう。
抑留された人から、日本の家族に向けた手紙も展示してありました。
すべてカタカナで書かれた手紙は、今の葉書よりも小さなサイズ。そこに、ところ狭しと、かならず、きっと元気に生きて日本に帰ると記されていました。
この手紙を出した方は、本当に無事日本に、家族の元に帰ることが出来たのでしょうか。
また、抑留生活を描いた絵も沢山ありました。
特に印象的だったのは、暗い目です。暗い中に何かぎらぎらした、妙な光がありました。
食べるものを均等に分ける絵。誰もが生きるために必死になって、譲り合うことなんて出来ない状況。
スープの具一つまで均等に分けなければならなかった。
食べ物の幻覚を見た人の絵。日本で暮らしていた頃、家族と一緒に食べたお祝い膳、毎日の食事、好きなもの。そんなものの幻覚を見ながら、息絶えてしまった人。
食べると言うことは、人間の欲の中で一番強く激しく我慢できない欲望ですから、空腹のまま死ぬ、空腹のまま生きると言うことは、本当につらかっただろうと思います。
絵の印象は本当に強くて、帰宅してからも、ふと思い出してなんだか暗い気持ちになりました。
最近の子供たちのおじいちゃん、おばあちゃんは若いので、ちょうど日本の高度成長あたりに生まれ育った人でしょうか。私の母は、NHKがテレビ放送を始めた年の生まれですから、勿論、戦争経験者ではありません。
母の兄弟、皆戦後生まれです。
祖父になると、戦争経験者ですね。大正11年生まれ。
祖父が戦争経験を語ることは殆どありませんでした。
ただ、母が若い頃に、「戦争は人を狂わせる」と言ったことがあるそうです。
海軍特別陸戦隊(?)で上海に行っていたそうですが、祖父が語らなかった経験を、今は知る方法がありません。
私がまだ学生の頃、祖父が戦友会をしたいと言い出しました。
もう随分年も取って、友人には体を悪くして入院した人もいて、一度で良いから、あの若い日々を共に過ごした仲間達と会って、話をしたい、と。
若い頃、友人達と交換したと言う住所録をひっぱりだしてきました。
それはもう、古く黄ばんで、紙がぼろぼろになっていました。
住所も、当時で50年近く昔のものですから、市町村よりも郡とか村と言う表記ばかり。
別れてから一度も連絡を取っていないと言う人も多く、本当に全員を集めることが出来るのかと不安になりましたが、ワープロで住所録を作り直し、手紙を書いてプリントアウトして、古い住所宛てに手紙を送りました。
郵便局で事情を説明すると、新しい住所表記を探してくれたり、そのままのあて先を探してくれたり、かなり手伝ってくれました。
電話番号の分かっている人には直接電話をかけ、説明し、ご家族や親戚にあたる人に行方を尋ねたり。
元気に生きている人がいると祖父は喜んで懐かしがり、既に亡くなった人がいると落胆して溜息を付き。
唯一、「戦争は自分にとってほんとうに辛く苦しいものだった。軍隊では苛められたし、ロシアへ行って苦しい思いをした。もう二度と思い出したくないから、連絡をしないでくれ」と言う人がいました。
このとき、祖父は泣きました。
「戦争は楽しいものでも何でもない、確かに、本当に苦しくつらいものだった、それでも、若い自分達は苦しみや辛さの中にわずかな青春を見つけて、仲間達と語り合い、共に過ごしてきた。それを思い出したくないといわれるのは、本当につらい。」
祖父は戦争について、何をした、どんなことをしたとは一切、語りませんでした。
けれど、鬼と思われる酷いことをしたでしょうし、人も殺したでしょう。
私の知る祖父は、明るくてひょうきんで、優しいながらも厳しく、とても素敵な人でした。
そんな素敵な祖父が、人を殺したなんて思いたくない。信じられない、けれど、それは確かに、本当にあったこと。
それを語るのは、祖父にとってつらいことだったでしょうけれど、私はもっと、興味をもって聞いておくべきだったなと、今頃になって後悔しています。
展示会に行くと、多くは戦争体験者と思われる年代のお客さんでした。
私と同じ年頃の人はいません。母と同じ年頃の人は何人かいました。自分の両親のつきそいで来た人のようです。
学校からこう言う類の展示会へは、集団で来たりするのでしょうか。
もし、自分と同じ年代に人や、これから成長して大人になる子供達がこの展示会を見なかったのだとしたら、それは勿体無いことです。
「語り継ぐ」ではなく「語り合う」になってしまってたんじゃないかな……。