にほんじんは、ほかのヒト・そんざいとのつながり、つまり、「縁」をいしきするヒトがおおいようである。
コレは、ぞくにいう、「じんせいは縁だ」というコトバがそんざいしていることが、そのことを、よくあらわしていそうである。
第二次世界大戦後の企業のけいえいしゃで、もっともゆうめいなひとりであり、日本人ばなれしており、セカイに通用し、成功したとされるソニー創業者である盛田氏が、どこかで「じんせいは縁だ」といういみのはつげんをしていた。これは、共同創業者である、井深氏とのであいの縁のことをいったかとおもわれる。
この日本人ばなれしたヒトでさえも、「ほかのヒトとの縁」というものを、いしきしていた点がきょうみぶかい。
この「じんせいは縁だ」というがいねん・かんがえかたは、そのきそ・前提じょうけんに、「よのなか・しゃかい・せけんは、ほかのヒト・そんざいとの縁でせいりつしている」といういしきがあるかとおもわれる。
こういう「じぶんと、ほかのヒト・ものごととのかんけいで、すべてはせいりつしている」という発想が、そのこんていにあるのであれば、「ほんとうのいみでの個人主義者」というそんざいは、この国では、そんざいすることがむずかしそうである。
つまり、「じぶんは、ほかのだれともかかわらず、つながらず、こりつして、ひとりだけでそんざいしている」という思想・かちかん・かんがえかたは、日本では敬遠されるのかもしれない。
こういうかんがえかたは、「ヒトはヒト、オレはオレだ。たにんのことはどうでもいい、じぶんのことだけかんがえるんだ」というタイプのヒトのことである。そして、こういうタイプのヒトのことを、にほんじんは、たしかにきらうようである。
もしも、こういうタイプのヒトが、がっこう、しょくばなどにいると、たかい確率で、ひどいイジメにあったり、さべつされたり、はくがいされていそうである。
あるいは、そこまでいかずとも、「かなりの奇人・へんじん」という印象をもたれ、「ひとりこりつし、まわりのヒトからあいてにされない」という状態に、なっているかとおもわれる。
いいかたをかえれば、この国において、イジメられず、さべつされず、はくがいされないようにするためには、こういういしき・かちかんというものを、ものごとをかんがえたり、はんだんしたりするときに、あるいは、ほかのヒトとあったり、せっするときに、もっていなければならないのかもしれない。
そうでないと、がっこうであれ、しょくばであれ、あるいは、住んでいるちいきしゃかいであれ、さべつされ、はくがいされ、イジメられることになり、ヒドイ目にあってしまいそうである。