あたりまえのことではあるのだが、すべてのことを、じぶんのかんがえどおりに、おもいどおりにすることはできない。
とくにソレが、じぶんのミライ・じんせい・シゴトにかんすることなら、「じぶんのチカラでは、どうしようもならず、どうにもできない」というケースが、おおいようである。
では、なぜそのような状況になるのであろうか。おそらく、そのりゆうのひとつに、「じぶんの意思・かんがえとは、むかんけいに、なにかをおこなわざるをえない状況になる」というモノがあるかもしれない。
つまり、じぶんとしては、そんなことを、まったくのぞんでおらず、いっさい期待もしていないのだが、シゴトで上司・かいしゃから、「ソレをやれ」との指示・めいれいがくれば、じぶんがしぬほどキライであり、イヤなことであっても、ソレをやらなければならない。
もっといってしまえば、じぶんがしぬほどキライなヒトであっても、そのヒトが、じぶんの上司なのであれば、その指示・めいれいには、とうぜんのことながら、したがわなければならない。
こういうことは、「じぶんの意思、期待、願望、好悪などに、まったくかんけいなく、なにかをおこなわなければならない」という状態のことでもある。
だからこそ、じぶんのミライ・じんせい・シゴトというものは、じぶんのおもいどおりに、かんがえどおりにならないのであろう。
だがしかし、こういう状態について、あまりにマイナスにかんがえすぎてしまうのも、チョットよくないのかもしれない。
そもそも、じぶんの意思・かんがえ・チカラで、じぶんのミライ・じんせい・シゴトというものを、じゆうにコントロールすることなどできない。できるわけがない。
ということであれば、コレは、いいかたをかえれば、「じぶんのミライ・じんせい・シゴトには、かならず、よそう外のできごと・ジケンがおこる」ともいえるであろう。
この「よそう外のできごと・ジケン」というモノは、あたりまえのことではあるのだが、プラスのよいことばかりではない、マイナスのわるいこともある。というよりも、ぜんたいとしては、マイナスのわるいことのほうが、おおいのかもしれない。
だがしかし、「じぜんのだんかいで、まったくよそう・想定していなかった、プラスのよいことがおきた」というケースも、たしかに、そんざいしているはずである。
そしてヒトは、こういうことを、「チャンス」だとか、「幸運」とおもうようである。じぜんのだんかいで、まったくよそう・想定をしていなかった。ならばソレは、じぶんの意思・かんがえ・チカラとは、かんけいなく、とつぜん、じぶんにたいしてやってきたモノである。
ということであれば、その「チャンス」や「幸運」とは、じぶんではなく、「まわりのヒト・ものごとが、もたらしたモノになる」と、いえるのではないだろうか。
そもそも、じぶんの意志・かんがえ・チカラで、てにいれたモノであれば、ヒトはソレを、「ラッキーだった」などと、おもわないはずである。ただたんに、「コレは、よてい・けいかくのとおりだ」と、おもうだけである。
じぶんの意志・かんがえ・チカラとは、かんけいなく、つまり、まったくよそう・想定ができず、けいかく・よていをたてれない状況・ケース・ところから、じぶんにとって、プラスのできごとがやってきたのである。
そして、ほかのヒト・ものごとによって、じぶんにとってプラスのできごとが、つまり、チャンスや幸運がやってくるのであれば、「じぶんがだれとであい、かかわるのか」ということに、つよい関心をもち、ちゅういするかとおもわれる。
つまり、「どういうヒト、ものごと・そんざいと、縁をつくり、かかわり、つながるのか」ということである。
そして、「じんせいは縁だ」といわれるように、じぶんがであう、ヒト・ものごと・そんざいによって、じぶんにたいし、もたらされるのであろうモノは、おのずと、きまってくるのかもしれない。
ハッキリいってしまえば、じぶんがこれからであう、あたらしいヒト・ものごと・そんざいによって、それまでとちがう、あたらしい、「にんげんかんけい」というモノがつくられる。だからこそ、じぶんのミライ・じんせいが、きまってくるのかもしれない。
ということであれば、ヒトのうんめいとは、だれかと、なにかとであい、かかわり、つながることによって、へんかしたり、きまってくるといえそうである。
