よのなか・しゃかい・せけんのなかでしごとをし、せいかつをしているという以上、「じぶんのかんがえ・おもいどおりに、すべてがじつげんし、すすんでいく」というケースなど、ぜったいにありえない。
つまり、だれであっても、どこかのだんかいで、だきょうをするひつようがある。いいかたをかえれば、「このあたりで、おとしどころをつける」ということになる。
よのなか・しゃかい・せけんのなかにいるという以上、だれであっても、かならず、ほかのにんげんと会い、せっしょくし、かかわりあいになる。
そして、あたりまえのことではあるのだが、にんげんというモノは、おのおのが、ちがったかんがえかた、かちかん、意見、感情、性格、たちば、事情などをもっている。
ということであれば、じぶんがなにかをつよくのぞみ、ソレをじつげんしたいとおもったとしても、ソレは、ほかのヒトにとってみれば、「とてもイヤなことであったり、めいわくにかんじる」というケースだって、じゅうぶんにありえるはずである。
もっといってしまえば、「じぶんにとってはプラスであり、メリットのあるよいことであっても、ほかのヒトにとってみれば、マイナスであり、デメリットのあるわるいことになる」というケースだってありえるはずである。
つまり、だれかがなにかをやったとき、そのじつげんのレベル・どあいを、100%かんぺきにしたいとおもい、そのようにおこなってしまえば、ソレは、ほかのヒトからすれば、「ソレはとてもこまることであり、おおきなひがい・そんがいをこうむったり、ふゆかいにかんじて怒る」というカタチになりかねない。
このようにかんがえてみると、やはり、なにごとにおいても「げんど」というものが、じゅうようになってきそうである。
いくらじぶんにとってはプラスであり、メリットのあることであっても、ソレは、「ほかのヒトからしてみれば、けっしてそうではなく、むしろ、まぎゃくにかんじてしまう」というケースがある。
そうである以上、どこかのだんかいで、「もうこれ以上はやらない」という、いわば、ブレーキがひつようになりそうである。