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末永慎のブログ

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よのなか・しゃかい・せけんのなかでしごとをし、せいかつをしているという以上、「じぶんのかんがえ・おもいどおりに、すべてがじつげんし、すすんでいく」というケースなど、ぜったいにありえない。

 

つまり、だれであっても、どこかのだんかいで、だきょうをするひつようがある。いいかたをかえれば、「このあたりで、おとしどころをつける」ということになる。

 

よのなか・しゃかい・せけんのなかにいるという以上、だれであっても、かならず、ほかのにんげんと会い、せっしょくし、かかわりあいになる。

 

そして、あたりまえのことではあるのだが、にんげんというモノは、おのおのが、ちがったかんがえかた、かちかん、意見、感情、性格、たちば、事情などをもっている。

 

ということであれば、じぶんがなにかをつよくのぞみ、ソレをじつげんしたいとおもったとしても、ソレは、ほかのヒトにとってみれば、「とてもイヤなことであったり、めいわくにかんじる」というケースだって、じゅうぶんにありえるはずである。

 

もっといってしまえば、「じぶんにとってはプラスであり、メリットのあるよいことであっても、ほかのヒトにとってみれば、マイナスであり、デメリットのあるわるいことになる」というケースだってありえるはずである。

 

つまり、だれかがなにかをやったとき、そのじつげんのレベル・どあいを、100%かんぺきにしたいとおもい、そのようにおこなってしまえば、ソレは、ほかのヒトからすれば、「ソレはとてもこまることであり、おおきなひがい・そんがいをこうむったり、ふゆかいにかんじて怒る」というカタチになりかねない。

 

このようにかんがえてみると、やはり、なにごとにおいても「げんど」というものが、じゅうようになってきそうである。

 

いくらじぶんにとってはプラスであり、メリットのあることであっても、ソレは、「ほかのヒトからしてみれば、けっしてそうではなく、むしろ、まぎゃくにかんじてしまう」というケースがある。

 

そうである以上、どこかのだんかいで、「もうこれ以上はやらない」という、いわば、ブレーキがひつようになりそうである。