あるとき、あるばしょ、ある状況下において、「かなり有効的であり、たかい成果をだすことができていた」というようなモノであっても、じかんがけいかして、がいぶのかんきょうがへんかしてしまえば、それは有効的でなくなり、成果がでないモノとなってくる。
というよりも、むしろ、「ソレがそんざいしていたり、ソレをおこなうことによって、むしろ、たくさんのキケン・もんだい、トラブル、ひがい・そんがいなどをひきおこし、ゆうがいなけっか・成果をもたらすようになった」ということも、おおいようである。
こういうモノのそんざいに、すぐに気がつけるかどうか。ということが、じゅうようになってくるのかもしれない。なにせ、そのそんざいにすぐ気がつかないと、いつまでも、そのゆうがいなモノをもちつづけたり、おこないつづけてしまうことになるのだから。
そして、そういう、「ながねんにわたってそんざいしていたり、おこなわれている」というモノは、たいていのばあい、それによって得をするヒトたち、ぞくにいう「既得権益」をもっているヒトたちがいる。
また、ちょくせつてきに、「既得権益」をもっていはいないのだが、ながねんにわたってそんざいしていたり、おこなわれているために、「ソレがあたりまえであり、とうぜんである」とおもっているヒトもおおい。
にんげんは、「ながねんにわたってそんざいしていたり、おこなわれている」というモノにたいして、あたりまえのことではあるのだが、「慣れる」というとくちょうがある。
そして、慣れているのであれば、それは、「習慣化されているモノ」というカタチになる。このようなカタチになってきてしまえば、あたりまえのことではあるのだが、「いったん身についた習慣をかえる」ということは、たいていのヒトであれば、かなりイヤがるはずである。
こういう、ちょくせつてきに既得権益はもっていないのだが、「ソレに慣れており、習慣化している」というタイプのヒトもまた、「ソレをやめたり、かえたりすることについて、はんたい・ていこうをする」というケースが、かなりおおいのではないだろうか。
ということであれば、たとえ、「ながねんにわたってそんざいしていたり、つづいていることなのだが、コレはもう、すぐやめなければならない。でないと、たくさんのキケン・もんだい、トラブル、ひがい・そんがいがひきおこされ、ヒドイ目にあってしまう」ということがわかったとしても、そうかんたんに、やめることはできないようである。
だがしかし、いくら「すぐやめることができない」というケースであっても、そのゆうがいなそんざいに気がついておらず、にんしきしていなければ、あたりまえのことではあるのだが、行動にうつすことなどできない。
ということであれば、すぐやめることができないとはいっても、そのゆうがいなそんざいに、ちゃんと気がついているのであれば、「いずれチャンスがくれば、コレをやめてしまおう」と、かんがえることはできるはずである。
となると、「ゆうがいなそんざいに、はやく気がつけるかどうか」という点が、じゅうようになりそうである。そして、そのための有効的なほうほう・やりかたが、「比較」というものかもしれない。
ほかのヒト・ものごと・そんざいと比較してみる。あるいは、じぶんのかこの状態と比較してみる。さらにいえば、じぶんだけでなくて、ほかのヒト・ものごと・そんざいにおける、かこの状態と比較してみる。
こういうことを、なんどもくりかえすほど、しだいに、「コレはもう、有効的なモノではなく、成果がでていない。むしろ、やればやるほど、たくさんのキケン・もんだい、トラブル、ひがい・そんがいなどをひきおこし、ゆうがいですらある」というモノのそんざいに、気がつくことができるのかもしれない。