すべてのものごと・そんざいは、ほかのものごと・そんざいとかんけいしており、つながることによってせいりつしている。と、こういうかちかん・かんがえかたを、にほんじんは、どうやら「とうぜんのことであり、あたりまえだ」とおもうようである。
このかちかん・かんがえかたには、もしかしたら、よい点があるのかもしれない。たとえば、「じぶんは、ほかのヒト・ものごと・そんざいと、まったくかかわっておらず、つながっていない。じぶんはひとりであり、こりつしている」とおもえば、かなりたかい確率で、そのヒトは過激になり、粗暴、凶暴なことをやりかねない。
そうではなくて、「じぶんは、ひとりだけではない。ほかのヒト・ものごと・そんざいとかかわり、つながっている」とおもえば、あたりまえのことではあるのだが、「もしもじぶんが、コレをいったり、おこなったとすれば、あいてはどうおもうのか。そして、どんなえいきょうをあたえるのか」ということを、かんがえるようになる。
そして、じぶんのはつげん・ふるまいによって、「あいてが怒り、不愉快になり、めいわくをかんじたり、キケン・もんだい、ひがい・そんがいをうける」というケースになるとわかれば、「ソレをいったり、おこなうのはやめておこう」というはんだん・けっていに、つながるかとおもわれる。
つまり、「ソレをやめる」という発想になりそうである。こういうことは、「ほかのヒト・そんざい・ものごととかかわり、つながっている」とおもうからこそ、でてくる発想といえるかもしれない。
こういうことをふまえてかんがえてみると、よのなか・しゃかい・せけんにいる、凶暴・粗暴・過激というタイプのヒトは、じぶんたちのことを、「ほかのヒトとかかわらず、つながっていない。ひとりであったり、しょうすう派にすぎない」という自己規定をしているケースがおおいのかもしれない。
たしかに、よくかんがえてみると、ぞくにいう「過激派」というタイプのヒトたちは、たいていのばあい、しょうすう派であるケースがおおおいようである。
たすう派であるヒトたちほど、しぜんと、そのはつげん、ふるまい、げんどうは過激さがきえて、あたりさわりのないことやタテマエをいったり、穏健、温和であるというケースがおおい。
そして、「たすう派」というそんざいは、いいかたをかえれば、たくさんのヒトたちのあつまりなのである。ということであれば、あたりまえのことではあるのだが、そのにんずうぶんだけ、「たすう派のなかにいるヒトは、たくさんのヒトとかかわりあい、つながっている」という状態であるといえる。
ということであれば、やはり、そのたすう派のなかにいるヒトは、ほかのヒトにたいするえんりょ・はいりょというものを、つねひごろからいしきしたり、注意しているかとおもわれる。
こういう状態は、「ほかのヒトとのかんけいせい、つながりによって、そのヒトの過激さ、凶暴さ、粗暴さがとめられている」というカタチといえるのかもしれない。
つまり、「ほかのヒト・ものごと・そんざいとのかんけいせい、つながりが、そのヒトにたいして、ブレーキのようなやくわりをはたしている」ともいえそうである。
ブレーキのないクルマ・バイクにのれば、いずれは、おおきな事故をおこしてしまうはずである。こういうことは、ヒトのじんせい・しごと・かつどう・せいかつにおいても、おなじことがいえるのかもしれない。
そして、にんげんにとってのブレーキとは、ほかのヒト・ものごと・そんざいとのかんけいせい・つながりが該当するのかもしれない。