たにんと、ほとんどつながらず、かんけい性のよわいヒトは、つまり、こりつし、こどくなヒトは、キケンで粗暴、凶暴なことをいったり、おこなったりしやすい。
コレはたしかに、そのとおりかとおもわれる。では、「たにんとよく会い、かかわり、かんけい性をつよくもつヒトは、すべからくおんわで、へいおんになるのか」というと、どうやら、そうともいいきれない。
あたりまえのことではあるのだが、ヒトは、じぶんと会い、かかわるあいてから、つよく、おおきなえいきょうをうける。
もしかしたら、ヒトの一生のなかで、じぶんの意思・かんがえだけで、はんだんし、けつだん・意思けっていしておこなうことは、あまりないのかもしれない。
ソレよりも、「じぶんが会い、かかわるヒトから、なにかしらのカタチでえいきょうをうけ、ソレによって、じぶんの意思・かんがえ・このみとかんけいなく、ソレをおこなわされた。おこなわざるをえなくなった」ということのほうが、あっとうてきにおおいのかもしれない。
こういうことは、しゃかいにたいして出ていって、はたらくようになると、とくに、そしきのなかで、ハグルマというたちばでいると、イヤというほどけいけんするはずである。
じぶんよりも、たちば上のヒトから、指示・めいれいというカタチで、「コレをやれ」といわれてしまえば、じぶんがしぬほどキライであり、やりたくないとおもっても、ソレをやらなければならない。こういうことは、たいていのヒトが、なんどもけいけんしているはずである。
また、「がっこう・しょくばのなかで、だれかをイジメる」というときも、「じぶんとしては、そのあいてのことを、それほどきらっていないのだが、まわりのヒトが、そのヒトをおいこむから、じぶんもソレに合わせ、したがうようにする。でないと、じぶんがターゲットになりかねない」というケースも、じぶんの意思・かんがえ・このみとむかんけいに、「まわりのえいきょう・チカラで、ソレをやらざるをえなかった」ということになるであろう。
じぶんがしょぞくする、そしき・しゅうだんが、キケン・粗暴・狂暴なことをおこないだせば、そのなかで、ハグルマというたちばでいる、一個人の意思・かんがえかた・このみなど、こうりょされることはない。
よくいわれる、「そしきのろんり」というコトバは、こういうことをいうかとおもわれる。一個人の意思・かんがえ・このみなど、しょぞくするそしきのろんりのまえには、ほとんど、なんのチカラもない。
ほかのヒトとのつながり、かんけい性がよわい、こりつし、こどくなヒトは、たしかに、粗暴・狂暴化・カゲキ化しやすい。
だがしかし、もしも、じぶんがしょそくする、そしき・しゅうだんが、キケンで粗暴、凶暴、カゲキな方針・かんがえをもち、おこなっているのであれば、けっきょくのところ、じぶんがどほどイヤであり、キライだとしても、ソレに同調し、したがい、おこなわざるをえないのかもしれない。
じぶんがしょぞくする、そしき・しゅうだんがあり、そこがキケンで粗暴、凶暴、カゲキな方針・かんがえをもち、ソレをおこなっているのであれば、イズレはじぶんも、そういうことを、おこなったり、けいけんするハメになるかもしれない。