あたりまえのことではあるのだが、しゃかいのなかでシゴトをし、せいかつをしている以上、ほかのヒト・そしき・そんざいとのかんけいや、つながりというものが重要になる。
たしか、司馬遼太郎は、さくひんのなかで、「にんげんは、にんげんかんけいでせいりつしている。にんげんから、にんげんかんけいをとってしまえば、臓器のカタマリでしかない」といういみの指摘をしたが、この指摘は、しんじつかとおもわれる。
そういえば、「じんせいは縁だ」というコトバもある。コレは、「じんせいは、だれとであい、かかわるかできまる」といういみのはずである。
そして、あたりまえのことではあるのだが、「縁」とは、ほかのヒト・そしき・そんざいとのかんけい性、つながりのことである。
こういうことは、がくせい時代のころは、あまり、じっかんがわかず、シックリこなかったかとおもわれる。
なにせ、がっこうという、いわば、へいさ的なくうかん・たてものにおり、かつ、ねんれいも近いヒトのあつまりである。そのうえ、せきにんをもっていない。
こういうたちばであれば、「じぶんのじんせいは、ほかのヒト・そんざいとの縁、であい、かんけい性、つながりできまる」ということは、あまり、じっかんがわきそうにない。
だがしかし、しゃかいにたいして出ていって、シゴトをしてはたらくようになると、とくに、そしきのなかで、ハグルマというたちばなると、たしかに、この「じんせいは縁だ」とか、司馬遼太郎のいう、「にんげんは、にんげんかんけいでせいりつする」という指摘を、じっかんをともない、りかいすることができそうである。
なぜならば、じぶんが、しぬほどキライなタイプが、もしもじぶんの上司になれば、まいにち、その上司とカオをあわせ、さらに、その上司の指示・めいれいを聞き、したがい、まもらなければならないのである。
もっといってしまえば、じぶんが、しぬほどキライなことでも、上司の指示・めいれいとあれば、ソレをやり、まもり、おこなわなければならない。
さらにいえば、じぶんが、しぬほどキライなタイプでも、そのヒトがおきゃくであれば、ていねいに対処・たいおうしなければならない。
ほかにも、げんじつの状態と、おおきくちがい、まぎゃくである指示・めいれいでも、そしき・上司から指示・めいれいをされれば、ソレをやらなければならない。
そして、ソレによって、なにかキケン・もんだい・トラブルがおきれば、ソレへの対処・たいおうを、じぶんがおこなうことになる。
もっといってしまえば、そういう、ムチャな指示・めいれいをうけても、「ちゃんと成果・けっかをだせ」というプレッシャーも、うけることになる。
こういうことが、何年も、何十年もつづいてしまえば、「じぶんが、どういう上司、おきゃくとかかわるのか」だとか、「どういうそしき・ぶしょではたらくのか」ということにたいし、どうしても、神経質になり、気にするようになる。
そして、「だれの部下になるのか、どのぶしょに移動するのか」などにたいして、一喜一憂することになる。
コレは、いいかたをかえれば、「だれとであい、かかわるのか」ということにたいし、神経質になり、気にしており、一喜一憂している。というカタチでもある。つまり、「ほかのヒト・そんざいとの縁を、気にしている」という状態でもある。
なぜならば、だれとであい、かかわるかによって、じぶんのシゴトの状態に、おおきな差がでてくるのだから。
ヒドイ性格の上司にあたったり、ヒドイないようのシゴトのぶしょに異動してしまえば、あたりまえのことではあるのだが、じぶん自身がヒドイ目にあい、ツラク、くるしいおもいをするのである。
ヒドイばあいだと、カラダをこわしたりして、シゴトをやめなければならないかもしれない。そういう状態になってしまえば、収入がなくなるのだから、おのずと、せいかつがくるしくなる。つまり、じぶんのおかれた状態が、劇的に、へんかしてしまうことになる。
こうなると、「だれと、なにとであい、かかわるのか。ソレによって、じぶんのおかれた状態・かんきょうに、おおきなえいきょうがでる」ということを、つよく、意識することになりそうである。
まさに、「だれと、なにとであい、かかわるのか。ソレによって、じぶんの状態というものが、つまり、じぶんのじんせいがきまる」というカタチになりそうである。だからこそ、「じんせいは縁だ」というコトバは、しんじつといえるのかもしれない。