推理しょうせつで、めいたんていが、しんじつ・真相をみぬき、真はんにんをとくていする。そのとき、たいていのばあい、どくしゃが以外とおもうヒトが、真はんにんであり、そのジケンの真相も、意外なりゆう・げんいんであるケースがおおい。
だからこそ、推理しょうせつといえる。どくしゃがすぐに、真はんにんがわかったり、しんじつ・真相がわかるようでは、ソレはおそらく、売りものにならない。
こういう、「しんじつ・真相は、意外なカタチをしている」という点は、どうやら、推理しょうせつのセカイだけでなく、われわれがシゴトをし、せいかつをしている、よのなか・しゃかいにおいても、じゅうぶんにあてはまるようである。
P・F・ドラッカーは、「人事をするとき、さいしょにアタマにうかぶヒトはまちがいだ。なんども、かんがえなおすひつようがある」という指摘をしたが、コレもまた、「しんじつ・真相は、すぐにわからない」という指摘と、似たようなことかとおもわれる。
てきせつな人事をおこなうためには、適材適所をおこなうひつようがある。だがしかし、そうかんたんに、「このシゴト・ぶしょは、だれがもっともてきせつか」ということは、わからないのである。
またドラッカーは、「ヒトをみる目があるヒトなど、そんざいしない」とも指摘している。つまり、「たにんのことを、すぐみぬき、りかいすることはできない。コレができるヒトなど、そんざいしていない」といういみであろう。
コレもまた、「しんじつ・真相は、すぐにわからない」という指摘と、似たようなことかとおもわれる。たにんの本性、真のスガタ、つまり、「しんじつ・真相」は、そうかんたんにはわからない。
そもそもヒトは、ホンネとタテマエをつかいわける。コトバでいっていることと、アタマでかんがえるホンネが、まぎゃくであるケースもおおい。
とくに、じぶんよりも、たちばが上であり、けんりょくをもつヒトにたいし、ズバズバとホンネをいえるヒトなど、ほとんどいないはずである。
じぶんのちょくぞくの上司や、じぶんがはたらくそしきのトップにたいし、ズバズバとホンネをいってしまえば、あいてをおこらせ、じぶんがヒドイ目にあってしまうのだから。
だから、ホンネはまったくちがい、はんたいなのだが、上司やトップがいうことにたいし、表面上は賛成し、イエスマンとなりやすい。
このようにかんがえると、「ヒトをみぬく」という行為は、かなりむずかしそうである。だからこそ、ドラッカーのいうとおり、「ヒトをみる目があるヒトなど、そんざいしない」ともいえそうである。
とくに、アタマがよいヒトほど、あたりまえのことではあるのだが、ウソがうまいのである。ホンネでは、まったくべつの、まぎゃくのことをかんがえているが、表面上は、うまくあいてに合わせる。つまり、うまくウソをつく。
ということであれば、アタマがよくて、すぐれるヒトほど、その本省・ないめんのホンネをみぬくことは、むずかしくなるはずである。
そして、人事をおこなうとき、アタマがよくて、すぐれたヒトをみぬき、適材適所をおこなおうとしても、アタマがよいヒトほど、ウソがうまい以上、すぐれたじんざいを、つまり、適材を、適所にはいちすることは、むずかしいともいえそうである。
しんじつ・真相は、すぐにわからない。この推理しょうせつの前提となっている発想・視点・かんがえかたは、ヒトをみるときに、じゅうぶんにあてはまりそうである。