じぶんのせいかつ・シゴトで、イロイロなものごとが、だれかとであい、かんけいし、つながるかことによって、つよいえいきょうをうけたり、けっていしたりする。そういうケースはおおい。
ということであれば、まさに、「じんせいは縁だ」というコトバのしめすとおりといえそうである。
そして、こういう状態について、いいかたをかえれば、「じぶんの意思・チカラ・かんがえで、なにかをおこなったり、じぶんのじんせいを、きりひらいていくことはすくない。それよりも、じぶんの意思・かんがえとは、むかんけいに、なにかをおこなわざるをえない状況になる」ということになる。
こういうことは、じぶんから、そっせんしておこなうのではなく、「状況におうじて、つまり、ひつようにかられて、ソレをおこなって、いまの状況になった」というカタチでもある。
つまり、「じんせいは、じぶんの意思・チカラ・かんがえで、きりひらいていくよりも、ほかからのえいきょうでごかされる、他動的ないちめんがおおい」というスタンスにもつながりそうである。
どうも、こういうスタンス・発想・かんがえかたは、なんだか消極的であり、無気力な印象をうけそうである。
だがしかし、そもそもの前提として、ほんとうのいみで、「じぶんの意思・かんがえ・チカラで、なにかを選択し、ソレをおこなう」ということなど、たいていのヒトにとって、つまり、あっとうてきに、だいたすうを占めるのであろう、いっぱんじん・ぼんじんには、もともと、ムリなことかもしれない。
こういうことが、ちゃんとできるタイプとは、ずのう・のうりょく・さいのう・じつりょくのレベルがたかく、かつ、つよい独立心・自立心などをもち、そのうえ、つよい意思をもっているタイプかとおもわれる。
そして、あたりまえのことではあるのだが、だいたすうのヒトは、それほどアタマがよくないし、すぐれていない。それに、意思もよわく、まわりのヒト・空気・かんきょうに、ながされやすいはずである。
つまり、じぶんの意思・かんがえ・チカラではなく、まわりのかんきょうによって、なにかをきめたり、おこなうというケースがおおい。
たとえば、じぶんがしぬほどキライであり、イヤなことであっても、ソレが、「かいしゃのつごうで」だとか、「上司の指示・めいれいだ」というカタチになれば、ほとんどのヒトは、ソレを、「イヤだ、やらない」とはいえず、きょひすることができない。つまり、さからうことができない。
こういう状態は、「じぶんの意思・かんがえ・チカラとは、まったくむかんけいに、じぶんがなにかをきめたり、おこなわなければならない」というカタチである。
これらのことをかんがえると、しゃかいにたいして出ていって、シゴトをして、はたらくようになると、とくに、そしきのなかで、ハグルマというたちばになると、「じぶんの意志・かんがえ・チカラで、すべてをきめて、なにかをおこなう」ということは、じつは、ほとんどふかのうなことかもしれない。
つまり、あっとうてきに、だいたすうのものごとは、じぶんの意思・かんがえ・チカラではなく、「まわりのかんきょうによって、つまり、まわりのヒト・そしき・ものごとの事情・依頼・めいれいなどによって、なにかをきめて、おこなうことになる」というカタチになりそうである。
コレは、「縁によって、なにかがきまり、おこなうことになる」ともいえそうである。