だれがいったコトバかはわすれたが、「どりょくはひとを、うらぎることがある」というものがあるらしい。
せけんでは、「どりょくすれば、かならずむくわれる」だとか、「どりょくすれば、かならず成功する」といういみのことを、いってくるひとがおおいようである。
そして、冒頭のしてきというものは、これとは、まったくぎゃくのかんがえかたにおもえる。
だがしかし、この冒頭のしてきは、かならずしも、「どりょくなどいらない、まったくひつようない」という意味ではないかとおもわれる。
あたりまえのことではあるのだが、どのようなぶんやのしごと・かつどうであっても、「おおきな成功をおさめた」というひとであったり、あるいは、「おおきな成功はしていないにしても、へいきん以上のレベルのじっせき・成果をのこした」というタイプのひとたちは、すべからく、いってい以上のどりょくをしている。
だからこそ、「どりょくすればむくわれて、成功するはずだ」という、せけんいっぱんてきな考えかたがなりたつかとおもわれる。
そうはいっても、よのなかには、「なかなか成功しない」というタイプのひとのほうがおおい。もっとろこつにいってしまえば、「おおきな成功をおさめることはムリにしても、ちいさな成功ですら、なかなかてにすることができない」というタイプのひとは、たくさんいるはずである。
そういう、いわば「敗者」といわれるひとたちは、「みながみな、ぜんいんなまけものであり、まったくどりょくをしなかったからだ」と、いっぽうてきにきめつけてしまうのも、どうかとおもわれる。
ふつうのひとたちよりも、はるかにどりょくをしているのだが、なかなか芽がでず、成功することができなかった。
もっといってしまうと、「おおきな成功をおさめることなど、さいしょからのぞんでいない。ちいさな成功でもよいとおもって、いままでひっしにどりょくて、がんばってきたのだが、それすらじつげんせず、叶うことがなかった」というタイプのひとは、たくさんいるのではないだろうか。
こういうときに、「どりょくすればむくわれて、かならず成功するはずだ」というかんがえかたをしていると、「こんなにひっしになってどりょくし、がんばってるのに、なぜじぶんはむくわれず、成功しなかったのか」と、つよくおもってしまうはずである。
つまり、「どりょくすればむくわれ、かならず成功するはずだ」という期待やがんぼうが、つよければつよいほど、そのぶんだけ、「それがじつげんせず、叶うことがなかった」というときに、反動・反作用がつよくなってしまう。
このようになってしまえば、よのなか・しゃかい、または、じぶんのみらい・じんせいにたいして、きぼうがもてず、ぜつぼうしたり、なげやりになってしまうかもしれない。
なにごとにおいても、ぜつぼうはよくないとされる。そうならないためにも、過度につよい期待・がんぼうをもってしまうことは、やはり、さけたほうがよさそうである。
そのためには、「ひっしになってどりょくて、がんばってさえいれば、かならずむくわれて、成功するはずだ」というかんがえかたは、やめたほうがよいのかもしれない。