ひっしになってどりょくして、がんばってさえいれば、かならずむくわれて成功するはずだ。と、このようにかんがえるためには、やはり、いっていの成功をおさめなければならないであろう。
なにせ、じぶんが成功することができたからこそ、そこではじめて、「いままでのどりょくが、ようやくむくわれた」と、かんじることができるのだから。
そして、わかくして、おおきな成功をおさめたひとがかいた本をよんでみると、このようなかんがえかたをもっているひとが、どうも、おおいようなきがしてしまう。
10だい、20だい、30だいで、おおきな成功をおさめたというひとたち、ぐたいてきには、アイドル、じょゆう、はいゆうなどのげいのうじん、プロスポーツせんしゅであったり、あるいは、じぶんがそうぎょうしゃとなって、かいしゃをつくって成功したひとなどがアタマにうかぶ。
こういう、わかくして、おおきな成功をおさめたひとがかいた本をよんでみると、「ひっしになってどりょくして、がんばっていれば、いつかむかわれて、成功することができる」というかんがえかたが、はいけいにあるようなきがする。
わかくして、おおきな成功をすることができたというひとは、あたりまえのことではあるのだが、そのジャンルをとわず、ひっしになってどりょくして、がんばったはずである。
そうでなければ、「わかくして、おおきな成功をおさめる」ということなど、できるわけがない。つまり、「たくさんのおカネや名声をてにいれる」ということなど、できるわけがない。
ふつう、せけんいっぱんのひとたちは、10だいのじきは、がくせいであることがおおい。そして、20だいになれば、しゃかいにたいして出ていって、しごとをしてはたらくようになる。
だがしかし、すぐにおおきな成功をおさめるということなど、まずできやしない。
おそらく、たいていのばあいでは、上司からこきつかわれており、ときには、イジメのようなめにもあうであろうし、また、やすい給料で、なんとかせいかつしている。というケースが、ほとんどではないだろうか。
まして、いまのじだいでは、しょくばに「わかて・しんじんなどが、なかなかはいってこない」ということがおおい。
そのために、「30だいになっても、あいかわらず、いちばんしたっぱのままであり、上司からこきつかわれている」というケースだって、たくさんあるのではないだろうか。
よのなかには、さきにのべたかんがえかたとはぎゃくで、「ひっしになってどりょくして、がんばったとしても、むくわれず、成功しないこともある」と、このようにかんがえているひともいる。
そして、このようにかんがえているひとは、どうやら、「わかくして、おおきな成功をおさめていない」というひとに、どうもおおいようであ。
わかいじきも、ひっしになってどりょくしており、イロイロとがんばっていたのだが、あまりむくわれることがなく、たいした成功もしなかった。
ということであれば、よのなか・しゃかいにたいして、「かどにつよい期待・がんぼうをいだかない」というのも、しかたがないかとおもわれる。
こういうタイプのひとは、「ひっしになってどりょくして、がんばっていたのだが、むくわれず、成功することができないじきが、しばらくつづいた」ということになる。
だからこそ、「よのなか・しゃかいは、あまくない」とおもっているのであろう。
というよりも、むしろ、「よのなか・しゃかいは、きびしいところであり、ひっしになってどりょくして、がんばってみたとしても、どうにもならないことがおおい」とかんがえるようになるのも、あるいみにおいて、とうぜんのことかもしれない。
わかくして、おおきな成功をおさめることができた。そういうタイプのひとほど、「どりょくすれば、なにかしらのけっか・成果がともなうだろう」というかんがえかたを、もちやすい傾向があるようである。
そして、「わかいじきに、ひっしになってどりょくして、がんばっていたのだが、あまりむくわれず、成功することができなかった」というタイプのひとほど、「どりょくしても、けっか・成果がともなわないこともおおい」と、こういうかんがえかたをするのかもしれない。