しごとをして、はたらいているのであれば、ほかのひととあったり、せっしょくしたり、かかわりあいにならざるをえない。そうである以上、どうしても、あいてのつごうにたいして、「じぶんのほうが、あわせなければならない」というケースがふえてくる。
とくにソレが、たちば・ねんれいなどが、じぶんよりうえのひとであれば、どうしても、じぶんのほうが、あいてのつごうにたいして、あわせなければならないはずである。
まして、じぶんにたいして、指示・めいれいをだしてきて、さからうことができないという、ちょくぞくの上司であれば、なおさら、じぶんのほうが、あいてのかんがえ・つごうにたいして、あわせなければならないことになる。
こういう状態になってくると、じぶんのじゆうに、つまり、おもいどおりにスケジュールをくんだり、じかんをつかうことができないはずである。
ということであれば、やはり、「じぶんのかんがえ・つごうで、じゆうにスケジュールをくむ」ということは、かなりむずかしくなってしまう。
しゃかいにたいして出ていって、そしきのなかで、はぐるまとしてしごとをして、はたらくようになったのであれば、こういうたいけんを、だれでもかならず、なんどかけいけんしたことがあるのではないだろうか。
こういうときに、いくらじぶんのほうが、「じゆうに、おもいどおりにしたい」とかんがえたとしても、どうしようもないし、どうにもならない。つまり、「しかたがない」とおもって、あきらめるしかない。
そもそもにんげんは、ほんとうのいみで、じぶんのつごう・かんがえだけで、じぶんのじかんをつかったり、スケジュールをくむということなど、もしかしたらできないのかもしれない。しゃかい・せけんのなかにいる以上は、ほとんどムリかとおもわれる。
こういうことが、ほんとうにできるのであろうかんきょうとは、きょくたんないいかたになるかもしれないが、「むじんとうのなかで、じぶんひとりだけでせいかつする」など、ほかのにんげんとあわず、せっしょくせず、かかわらないかんきょうになるのかもしれない。
じぶんのつごう・かんがえだけで、じゆうにじかんをつかえず、スケジュールをくむことができない。こういう状況下では、だれであってもイライラするしであろうし、つよいストレスをかんじて、ふへい・ふまんをおぼえるはずである。
だがしかし、さいしょから、「これが、あたりまえの状態なんだ」とおもっておけば、こういうイライラ、ストレス、ふへい・ふまんも、すこしはやわらぐのかもしれない。
しゃかい・せけんのなかでしごとをして、せいかつをしているという以上、「じぶんのじゆう、おもいどおりになることなど、ほとんどない」と、さいしょからおもっておけば、あるていどの不自由さも、なんとか、ガマンすることができそうである。
ぎゃくにいえば、じぶんのみらい、じんせいなどにたいして、あまりにもつよい期待、りそう、がんぼうなどをいだいていると、「ソレがうらぎられつづける」ということになる。
もっといってしまえば、じぶんのかんがえたとおりにならず、すすまない。それどころかむしろ、ぎゃくの状態になってしまう。ということだって、たくさんけいけんするはずである。
だから、そのつど、つよいふへい・ふまんをかんじて、イライラがつのり、ストレスがたまりつづけそうである。
こういうときに、「じぶんのほうが、なぜほかのひとにたいして、いちいちあわせなければならないんだ。あいてのほうが、じぶんにたいしてあわせるべきだ」というかんがえかたをしていると、おそらく、そのイライラ・ストレス、ふへい・ふまんなどは、いつまでたってもきえないのではないだろうか。
かんがえかたひとつで、にんげんがかんじるのであろう、ふへい・ふまん、イライラ・ストレスのつよさやりょうは、おおきくかわってくるのかもしれない。