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末永慎のブログ

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しごとをして、はたらいているのであれば、ほかのひととあったり、せっしょくしたり、かかわりあいにならざるをえない。そうである以上、どうしても、あいてのつごうにたいして、「じぶんのほうが、あわせなければならない」というケースがふえてくる。

 

とくにソレが、たちば・ねんれいなどが、じぶんよりうえのひとであれば、どうしても、じぶんのほうが、あいてのつごうにたいして、あわせなければならないはずである。

 

まして、じぶんにたいして、指示・めいれいをだしてきて、さからうことができないという、ちょくぞくの上司であれば、なおさら、じぶんのほうが、あいてのかんがえ・つごうにたいして、あわせなければならないことになる。

 

こういう状態になってくると、じぶんのじゆうに、つまり、おもいどおりにスケジュールをくんだり、じかんをつかうことができないはずである。

 

ということであれば、やはり、「じぶんのかんがえ・つごうで、じゆうにスケジュールをくむ」ということは、かなりむずかしくなってしまう。

 

しゃかいにたいして出ていって、そしきのなかで、はぐるまとしてしごとをして、はたらくようになったのであれば、こういうたいけんを、だれでもかならず、なんどかけいけんしたことがあるのではないだろうか。

 

こういうときに、いくらじぶんのほうが、「じゆうに、おもいどおりにしたい」とかんがえたとしても、どうしようもないし、どうにもならない。つまり、「しかたがない」とおもって、あきらめるしかない。

 

そもそもにんげんは、ほんとうのいみで、じぶんのつごう・かんがえだけで、じぶんのじかんをつかったり、スケジュールをくむということなど、もしかしたらできないのかもしれない。しゃかい・せけんのなかにいる以上は、ほとんどムリかとおもわれる。

 

こういうことが、ほんとうにできるのであろうかんきょうとは、きょくたんないいかたになるかもしれないが、「むじんとうのなかで、じぶんひとりだけでせいかつする」など、ほかのにんげんとあわず、せっしょくせず、かかわらないかんきょうになるのかもしれない。

 

じぶんのつごう・かんがえだけで、じゆうにじかんをつかえず、スケジュールをくむことができない。こういう状況下では、だれであってもイライラするしであろうし、つよいストレスをかんじて、ふへい・ふまんをおぼえるはずである。

 

だがしかし、さいしょから、「これが、あたりまえの状態なんだ」とおもっておけば、こういうイライラ、ストレス、ふへい・ふまんも、すこしはやわらぐのかもしれない。

 

しゃかい・せけんのなかでしごとをして、せいかつをしているという以上、「じぶんのじゆう、おもいどおりになることなど、ほとんどない」と、さいしょからおもっておけば、あるていどの不自由さも、なんとか、ガマンすることができそうである。

 

ぎゃくにいえば、じぶんのみらい、じんせいなどにたいして、あまりにもつよい期待、りそう、がんぼうなどをいだいていると、「ソレがうらぎられつづける」ということになる。

 

もっといってしまえば、じぶんのかんがえたとおりにならず、すすまない。それどころかむしろ、ぎゃくの状態になってしまう。ということだって、たくさんけいけんするはずである。

 

だから、そのつど、つよいふへい・ふまんをかんじて、イライラがつのり、ストレスがたまりつづけそうである。

 

こういうときに、「じぶんのほうが、なぜほかのひとにたいして、いちいちあわせなければならないんだ。あいてのほうが、じぶんにたいしてあわせるべきだ」というかんがえかたをしていると、おそらく、そのイライラ・ストレス、ふへい・ふまんなどは、いつまでたってもきえないのではないだろうか。

 

かんがえかたひとつで、にんげんがかんじるのであろう、ふへい・ふまん、イライラ・ストレスのつよさやりょうは、おおきくかわってくるのかもしれない。