めいじ、たいしょう、しょうわのしょきにかけてかつやくし、にほんの「財界」をつくったとされる渋沢栄一が、まずしいひとたちをしゅうようする、しせつをたずねたことがあるらしい。
そして、そのときに、「かれらには、きょうつうてんがある。それはウソをつくことだ」といういみのことを、してきしたことがあるらしい。
このしてきは、とてもきょうみぶかい。そういう、「まずしいきょうぐうになった」というひとたちは、「もともと、まずしい家にうまれた」というひともいたとおもうが、そういうタイプのひとだけではなかったかとおもわれる。
つまり、あるていど、ゆうふくな家にうまれたひとや、いちどは、いっていの成功をおさめたというひとも、そのなかに、たしょうはいたかとおもわれる。
ということであれば、「いろいろな階層の出身者がいた」と仮定してみると、「いろいろなかんきょうにいた、いろいろなひとたちがいた」ということになる。
これは、いいかたをかえれば、「いろいろなぶんやにおいて、しごとをして、かつどうしていたひとたちがいた」ということでもある。
そして、そういう、いろいろなタイプのひとがいるにもかかわらず、まずしくなって、くきょうにおちいって、ふこうになったひとたちにきょうつうしていたのが、「ウソをつく」というてんであるのは、じゅうようないみをもっているのかもしれない。
つまり、よのなか・しゃかいにたいして出ていって、しごとをしたり、せいかつをするようになると、「ウソをつく」というタイプのひとは、ちめいてきなしっぱいをまねいて、いずれは、ぼつらくするというきけんせいが、たかまるといえるのかもしれない。
たしかに、どれほどアタマがよくて、すぐれたずのう、さいのう、のうりょくをもっているというタイプのひとであっても、そのひとが、いつもへいきでウソをついているのであれば、いずれは、そのウソがバレるはずである。
ほかのひとを、さいしょからさいごまで、ずっとウソをついてだましつづける。ということなど、どれほどの大天才であっても、できるはずがない。
あたりまえすぎるほどに、あたりまえのことではあるのだが、なんどもウソをつきつづければ、いずれはバレることになる。
よほどバカなひとでないかぎり、「じぶんにたいしてウソをついて、だましつづけている」というタイプひとがいれば、どこかのだんかいで、そのことにきがつくはずである。
こいうことは、おそらく、たいていのひとであれば、じゅうぶんすぎるほどに、よくわかっているかとおもわれる。
だがしかし、「なんどもなんども、へいきでウソをつきつづける」というタイプのひとも、たしかに、よのなかに、いっていすうはそんざいしている。
そこが、がっこうであっても、しょくばであっても、「あのひとのいっていることは、どうにも、しんようすることができない」だとか、「あのひとは、すぐにウソをつくから、いっていることを、いちいちまにうけてはいけない」ということを、よくいわれるひとがいる。
そして、よくよくみていると、こういう、わるいひょうばんがたっているタイプのひとのことを、まわりのひとたちは、「ひょうめんじょうは、いちおう、なかよくしているようである。だがしかし、はらのなかでは、かなりたかいかくりつで、そのひとのことをしんようしておらず、それどころか、むしろバカにして、きらっている」というケースが、かなりおおいのではないだろうか。
ほかにも、あたりまえのことではあるのだが、ウソのじょうほう・じじつをもとにして、なにかをかんがえたり、はんだんして、けっていをしたのであれば、そのあんけん・ものごとは、ほぼまちがいなく、なにかのトラブル・もんだいをひきおこしたり、しっぱいすることになるはずである。
ウソをざいりょう・ベースにしてかんがえだされた、けつろん、ていあんなどが、うまくいって成功した。というケースなど、まずかんがえられないし、じっさいに、いままで、そういうケースなどみたことがない。
ということであれば、やはり、「あまりにもおおく、ウソをつきすぎる」というタイプのひとは、かなりたかいかくりつで、しごとでミス、トラブル、もんだい、しっぱいなどを、たてつづけにひきおこすであろうし、ほかのひととのあいだに、たくさんのトラブル、もめごとをひきおこすはずである。
つまり、ひとことでいえば、ぞくにいう「もんだいじ」であり、「たくさんのもんだいを、つねにつくりだす」という、とてもこまったタイプのひとになる。
こういう、いわゆる「もんだいじ」というタイプのひとと、すきこのんで、いっしょになにかをやろう。というひとなど、ほとんどいないかとおもわれる。
なにせ、こういうタイプのひとと、いっしょにいたり、なにかをやったりすれば、つぎつぎに、たくさんのミス、トラブル、しっぱい、もんだい、もめごとなどをひきおこすのである。
そして、そうなると、「じぶんもそれらにまきこまれて、ヒドイめにあってしまう」ということが、しぜんとふえてくることになる。
あたりまえのことではあるのだが、なんどもなんども、しかも、おおきなミス、トラブル、しっぱい、もめごと、もんだいなどにまきこまれれば、それこそ、「ぼつらくしてしまい、くきょうにおちいって、ふこうなきょうぐうになってしまう」というきけんせいが、しぜんとたかくなる。
そうであれば、「まっとうな、ほしんの感覚をもっている」というひとであれば、つまり、まっとうなじょうしきじんであれば、「こういうタイプのひととは、なるべくちかよらず、あわず、かかわらないようにしよう」というはんだんになる。つまり、きょりをとるようになる。
このような状態になってしまえば、そのもんだいじは、じぶんがひきおこした、たくさんのミス、トラブル、しっぱい、もんだい、もめごとを、じぶんひとりでかいけつしなければならない。なにせ、じぶんのしゅういには、きょうりょくしたり、たすけてくれるひとが、ほとんどいないのだから。
そうなると、そのもんだいじは、やはり、「ぼつらくしてしまい、くきょうにおちいり、まずしいきょうぐうになる」という、ふこうなけっかになるかとおもわれる。渋沢栄一がみたという、しせつのひとのように。