ろこつにいってしまえば、どのようなぶんやのかいしゃ・そしきにはいり、また、どのようなしゅるいのしごとをしても、「へいきでウソをつく。というタイプのひとは、やがて、まわりのひとからしんらいされず、きらわれるようになる。そして、たにんをおこらせたりして、じめつしていくことになる」といってもいいのかもしれない。
たしかに、「ほかのひとにたいして、へいきでウソをつく」というタイプのひとがいれば、そのひとがいっていることなど、いずれは、だれもしんじなくなるであろう。
それに、そのひとがついたという「ウソ」によって、じぶんが、なにかしらのひがい・そんがいをうけたり、ヒドイめにあったりすれば、だれであっても、しぜんと、いかりがわいてくるはずである。
こういうことが、なんどもくりかえされてしまえば、どのようなぶんやにおける、どのようなかいしゃ・そしきであっても、やがてそのひとは、きらわれて、まわりが敵だらけになってしまうかとおもわれる。
つまり、「じぶんのいばしょ」というものが、そのかいしゃ・そしきのなかに、なくなってしまうのではないだろうか。
そして、しだいに、「ミスやトラブルばかりひきおこす、やっかいなもんだいじ」という、わるいひょうかをもらうはずである。
このような状態になってしまえば、かなりたかいかくりつで、しぜんと、「いろいろなぶしょ・たんとうを、たらいまわしされてしまう」というケースになりそうである。
どのようなぶんや・しゅるいにおける、どのようなかいしゃ・そしきであっても、こういうタイプのひとが、なんにんかいるのではないだろうか。アタマのなかに、なんにんか、そのすがたがうかぶかとおもわれる。
あんのじょう、そういうタイプのひとは、その「たらいまわしされたさき」のぶしょ・たんとうであっても、いままでどおり、つまり、あいかわらず、たくさんのもんだい・トラブル・ミスをひきおこすことになる。
これは、ひにくめいた言いかたをしてしまえば、「わるい意味で、しゅういの期待をうらぎらない」といってもいいのかもしれない。
そのために、「コイツは、なにをやってもミス・しっぱい・トラブル・もんだいばかりをひきおこす。だから、つかいみちがない。それに、ただそこにいるだけで、まわりのひとがひがいにあうから、まわりのひとがこわれてしまう。もうクビにして、やめさせるべきだ」という、ふこうなけつまつになるきけんせいが、たかいかとおもわれる。
あたりまえのことではあるのだが、やはり、「たにんにたいして、へいきでウソをつく」という行為には、おおきなリスクがふくまれていそうである。
こういうことを、ちゃんとふまえてかんがえてみれば、やはり、「だれにたいしても、ふだんから、へいきでウソをつく」という行為は、ながいめでみれば、それはやがて、めぐりめぐって、じぶんじしんにたいして、わるいけっかとなってはねかえってくるのかもしれない。
もちろん、だれであっても、ときには「ウソをつかなければならない」というときはある。
これまた、あたりまえのことではあるのだが、バカしょうじきに、なんでもかんでも、いつ、どんなときも、だれにたいしても、いちいち「ほんとうのこと」をいっていたら、まずまちがいなく、たくさんのひとたちをおこらせて、もめてしまうことになり、たくさんのトラブル・もんだいがおきてしまうはずである。
だからこそ、ときには、しょうじきにホンネをいうのではなくて、ホンネでは、ちがうことをおもっているとしても、ほんとうのことではなくて、ちがうことを、つまり、「ウソ」をいわなければならない。というときもある。
だがしかし、それでも、ものには「げんど」があるはずである。にんげんである以上、そして、しゃかい・せけんのなかではたらいており、せいかつをしているという以上、「ふだんから、いつ・どんなときも、だれにたいしても、あまりにも、たくさんウソをつきつづけてしまう」というタイプのひとは、まわりにいるひとたちとのあいだで、たくさんのトラブル・もんだいをかかえこんでしまう。というケースがおおそうである。
ほかのひとにたいして、「ふだんから、あまりにもたくさんウソをつく」という行為は、ながいめでみたり、かんがえてみれば、おおきなリスクをはらんでいるのかもしれない。