にんげんがおこなうという「たいわ」には、どうやら、ふたつのしゅるいがあるようである。それは、「たにんとのたいわ」と、「じぶんじしんとのたいわ」である。
そして、ふつう「たいわ」とは、「たにんとのたいわ」のことをいうのであろう。
だがしかし、「じぶんじしんとのたいわ」についても、ときには、ひつようになるかとおもわれる。そして、「つねひごろから、コレがちゃんとできていない」というタイプのひとは、そのいけん・かんがえが、どうしても、あさくなってしまうようである。
つまりこれは、いいかたをかえれば、「そこのそこまで、ふかくほりさげて、ねほりはほり、てっていてきにかんがえぬかないと、どうしても、よいアイデア・ていあん・いけんなどはでてこない」といってもいいのかもしれない。
あたりまえのことではあるのだが、あさいかんがえでうかんだという「アイデア・いけん・ていあん」などは、たいていのばあい、そのないようについて、てっていてきにつめていないはずである。ということであれば、やはり、チョットしたことでボロがでたり、あるいは、トラブルがおきやすいはずである。
つまり、「げんじつてきには、ほとんどやくにたたず、成果・こうかがない」といってもいいのかもしれない。
それどころか、むしろ、それをおこなうことによって、「たくさんのもんだい・トラブルをひきおこす」ということがおおい。だから、ゆうがいですらある。
では、「じぶんじしんとのたいわ」とは、いったい、どういうかたちでやるものなのか。「じぶんのないめんで、アレコレとかんがえる」というのはもちろんだが、どうやら、それだけではよわそうなのである。
もっともよいほうほう・やりかたは、「じぶんのかんがえ・いけんを、なにかにかきだす」ということかもしれない。ペンなどでカミにかいてもいいし、あるいは、パソコンにうちこんでもよい。
こうすることで、アタマのなかのかんがえ・いけんが、じぶんのめでハッキリとみえるようになる。つまり、可視化されることになる。
あたりまえのことではあるのだが、なにごとにおいても、じぶんのめでハッキリとみえるほうが、よりぐたいてきになる。つまり、そのすがたかたちを、ハッキリとにんしきし、りかいすることができるはずである。
ぎゃくにいってしまえば、「じぶんのめで、ハッキリとみることができない」というものは、そのすがたかたちを、ハッキリとにんしきしたり、りかいすることなどできない。
だから、どうしてもバクゼンとしており、そのないようは、あいまい・抽象的なものになりやすい。つまり、あさいかんがえになってしまう。これはもう、しかたがない。
そして、アタマのなかにあるという「アイデア・いけん・かんがえ」は、そのままでは、じぶんのめで、ハッキリとみることなどできない。だからこそ、そのすがたかたちが、ハッキリとしないことになる。
ということであれば、やはり、どうしても、さいぶまで、ぐたいてきにはならないはずである。つまり、いざソレをやりだすと、こまかいところで、つじつまがあわないことがでてくるし、あるいは、ムリやむじゅんがでてくることになる。
このような状態になってしまえば、そのものごと・あんけんは、かなりたかいかくりつで、たくさんのもんだい、支障、トラブルにみまわれることになり、うまくいかないはずである。
だがしかし、コレをぎゃくにいってしまえば、アタマのなかにあるアイデア・いけん・かんがえを、つねひごろから、こまめにかきだしていると、「じぶんのアタマのなかにある、アイデア・いけん・かんがえなどが、つねに可視化されており、じぶんのめで、ハッキリとみえるかたちになっている」という状態になる。
だからこそ、こまかいところまで、ぐたいてきに、ハッキリとりかい・はあくして、ないようをつめてかんがえることができるし、あるいは、おかしいところをなおすこともできる。
どうやら、「ぐたいてきであり、かつじっこうかのうな、よいアイデア・ていあん・いけんを、たくさんかんがえだすことができる」というタイプのひとは、かなりたかいかくりつで、「じぶんのかんがえ・いけん」というものを、つねひごろから、カミなどにかきだしているようである。