あたりまえのことではあるのだが、「ひとのきおく」というものは、じかんがたつほど、どんどんあいまいになる。だから、そのないようがかわり、不正確になってしまう。
たとえば、「おそろしく、きおくりょくすぐれている」というアタマのよいひとでも、「すべてのことを、さいぶにいたるまで、カンペキに、いっさいまちがえず、いつまでも正確におぼえつづけるということなど、できるわけがない。そんなにんげんが、このよにいるわけがない。
だからこそ、ひとはメモをして、きろくをとるようにする。そして、あたりまえのことではあるのだが、いったん「きろく」というかたちで、なにかにのこしてしまえば、それがのこっているかぎり、かたちをかえることはない。だから、「ただしいかたちが、ずっとのこる」ということになる。
しゃかいにたいして出ていって、しごとをして、はたらくようになるほど、この「正確性」というものが、どれほどじゅうようなことであるのか。というてんを、おもいしらされることがおおい。
あたりまえのことではあるのだが、いっていることが、いつも不正確であり、まちがったないようであれば、まずまちがいなく、そのひとは、「しゅういのひとからのしんらい」というものを、いずれはなくすはずである。
もっといってしまえば、その不正確なことを前提じょうけん・きそ・ざいりょうにしてかんがえて、なにかしらのけつろん、ていあん、けいかくなどをきめれば、かなりたかいかくりつで、そのものごとはしっぱいし、きけん・もんだいなどをひきおこし、ひがい・そんがいをまねくことになる。
このような状態になってしまえば、まわりにひとたちが怒ることはもちろん、けっきょくのところは、じぶんじしんにたいしても、ソレがはねかえってくることになる。つまり、「じぶんが、せきにんをとらなければならない」ということになりやすい。
つまり、不正確であり、あやまったじじつ・じょうほうなどを、きそ・前提じょうけん・ざいりょうにして、ものごとをかんがえたり、はんだんして、けつだん・意思けっていをおこなってしまえば、じぶんじしんも、まわりにいるひとたちも、ヒドイめにあってしまいかねない。
このようにかんがえてみると、やはり、「正確性」というものは、どのようなジャンルにおける、どのようなタイプのしごとであっても、じゅうようになるのではないだろうか。
いいかたをかえれば、ものごとにおける「正確性」というものを、ほとんどかんがえておらず、かるくあつかっていたり、こうりょしていないひと・そしきがあれば、それは、「かなりたかいかくりつで、たくさんのミス・しっぱいをひきおこし、たくさんのきけん・もんだい、ひがい・そんがいがおこるかもしれない」と、ちゅういしておいたほうがよさそうである。