しゃかいにたいして出ていって、しごとをして、はたらくようになれば、いやがおうでも、「ほかのひととあったり、せっしょくしたり、かかわりあいになる」というひつようがでてくる。
ぐたいてきには、おなじ職場の上司、どうりょう、センパイ、ぶか、後輩はもちろんのこと、とりひきさきのぎょうしゃのひとや、おきゃくなど、たくさんのひととあったり、せっしょくしたり、かかわりあいになるはずである。
そして、しごとをしてはたらいている以上、こういう、ほかのひとたちとのやりとり、はなしあいによって、ものごとがきまったり、うごいていくということがおおい。
つまり、「じぶんのこじんてきなかんがえ・つごうだけで、ものごとをきめたり、うごかしていく」というケースは、かなりすくないはずである。
というよりも、むしろ、「じぶんのこじんてきなかんがえ・つごうとは、まったくちがうながれ・かたちになってしまった」というケースのほうが、むしろ、あっとうてきにおおいのではないだろうか。
これは、ろこつにいってしまえば、「ほかのひとのつごう・かんがえにあわせて、ものごとをきめたり、うごかさなければならない」ということになりそうである。
とくにソレが、じぶんよりも、たちばがうえのひとであれば、つまり、じぶんの上司であれば、ぶかであるじぶんとしては、上司のもっているかんがえ・つごうにたいして、じぶんのほうが、あわせなければならないはずである。
しごとをして、はたらいているというしゃかいじんは、いいかたをかえれば、「じぶんのこじんてきなかんがえ・つごうだけで、ものごとをきめたり、おこなうことができにくいひと」といえるのかもしれない。
つまり、しゃかいじんとは、はたらいているぶんだけ、「じぶんのじゆうに、おもいどおりにできることがすくない」というとくちょうがありそうである。
そうだからこそ、しゃかいじんは、「がくせいじだいはよかった。じゆうがあった」とおもうのであろう。
こういうことを、なんどもおもったことのあるひとは、よのなかに、たくさんいるはずである。というよりも、「こういうことを、いちどもかんがえたことがない」というタイプのひとなど、もしかしたら、ひとりもいないのかもしれない。
では、なぜこういうことをかんがえるのであろうか。それはやはり、うえにものべたとおり、「しゃかいじん」というそんざいは、じぶんのこじんてきなかんがえ・つごうだけで、ものごとをきめたり、おこなうことができなず、ほかのひとのかんがえ・つごうにたいして、じぶんのほうが、あわせなければならないからかとおもわれる。
しゃかいにたいして出ていって、「しごとをして、はたらいている」というしゃかいじんは、こういうかんじょう、なやみをもたざるをえない。だからこそ、むかしのがくせいじだいのことを、つごうよく美化したがるようである。
たとえ、ほんとうのがくせいじだいが、「あまりパッとせず、むしろ、きょうしつのスミのほうで、めだたないようにしていた」というタイプのひとであっても、やはり、いざしゃかいにたいして出ていって、しごとをして、はたらくようになると、どうしても、むかしのがくせいじだいのことを美化して、「あのころはよかった。じゆうがあった」とおもってしまうようである。
がくせいじだい、テストやじゅけんのことをしんぱいしたり、ふりょうにめをつけられたり、イジメにあわないように、いつもビクビクしていた。というタイプのひとであっても、いざしゃかいにたいして出ていって、しごとをして、はたらきだすようになると、がくせいじだい以上につらくて、きびしいげんじつにたいして、なんどもちょくめんすることになる。だからこそ、どうしても、がくせいじだいのことを美化してしまう。
しごとをして、はたらいているという以上、じぶんにたいして、なにかしらのせきにんがともなってくる。だからこそ、それからにげたり、きょひしたり、めをそむけるということができない。
がくせいじだいであれば、イヤなことがあれば、それからめをそむけたり、にげたり、きょひすることだってできた。つまり、そういうじゆうもあった。
だがしかし、しごとをして、はたらいているという以上、給与というかたちで、おカネをもらわなければならない。そうでなければ、じぶんがせいかつすることができず、いきていくことができない。
だからこそ、どうしても、「じぶんがせきにんをもっている」という、たんとうぶんやのしごとからは、にげたり、きょひすることができない。なにせ、そんなことをすれば、じぶんがそのせきにんをとらされてしまうのだから。
よのなかには、映画、テレビドラマ、しょうせつ、マンガ、アニメなどのジャンルをとわず、がくせいじだいのことをえがいている、ごらくさくひんがたくさんそんざいしている。というよりも、そういうさくひんが、あまりにもおおいきがする。
では、なぜこれほどまでに、がくせいじだいのことをえがいたごらくさくひんが、よのなかにたくさんそんざいしているのであろうか。かんがえられるてんとして、たんじゅんに「じゅようがある」ということがある。
あたりまえのことではあるのだが、そういうないようのものを、みたい、よみたい。というひとが、たくさんいるからであろう。
あるていどのじゅようがあるからこそ、きょうきゅうするがわも、しごとしてなりたつのである。そして、じゅようがあるということは、いいかたをかえれば、「ソレをもとめているひとたちが、あるていどはそんざいしている」ということでもある。
では、もとめているというひとたちは、なぜソレをもとめているのであろうか。つまり、なぜ「がくせいじだいをえがいた、ごらくさくひんをみたい、よみたい」とおもい、もとめているのであろうか。
そのりゆうのひとつとして、げんえきのがくせいがみたり、よんだりするだけではなくて、しゃかいにたいして出ていて、しごとをして、はたらいているというしゃかいじんが、「いまのじぶんがつらくて、くるしい状態になっている。だから、むかしのことを美化しており、その美化しているがくせいじだいをえがいたさくひんを、みたい、よみたい。とおもっているから」というものがあるのかもしれない。