縁とは、「ほかのそんざいとのつながり」のことであるが、どうやら、その対象は、ひとにかぎらないようである。そしき、ものごともふくめれそうである。
じぶんがしょぞくして、はたらいているそしきもそうであるし、ほゆうしているものもそうであろう。
たとえば、きけん・もんだいがおおく、トラブルのおおいそしきではたらいたり、あるいは、そういうそしきと、とりひきなどでかかわっていれば、その対象とつながっており、縁ができているはずである。
そうであれば、「じぶんも、きけん・もんだいにまきこまれてしまう」というかのうせいは、しぜんと、たかまるはずである。
縁とは、ひとだけが対象ではない。じぶんがよくせっするものごとも、縁の対象とみてよい。みぢかにあるものであれば、たとえば本もそうであろう。
旧ソ連のどくさいしゃであった、ヨシフ・スターリンというじんぶつは、「そのひとがよんでいる本をみれば、そのひとが、どういうタイプのひとかわかる」といういみのことを、いったことがあるらしい。
ざんこくであり、れいこくなどくさいしゃであったこのスターリンだが、この指摘は、おそらく、しんじつであるかとおもわれる。
ひとは、すきな本であれば、なんどもよみかえすことになる。ということであれば、しぜんと、そのないようから、えいきょうをうけことになる。
じぶんのかんがえかたや、かちかんにちかいことが書かれているからなのか、じぶんがすきな本のないようは、しぜんと、じぶんのアタマのなかにはいってきやすい。つまり、えいきょうをうけて、そまりやすいともいえる。
本にかいてあることにそまる。これは、「その本から、えいきょうをうける」ということである。そして、そもそも、その本をよまなければ、そまることはない。
つまり、てにとってよまなければ、そまりようがないのだ。ちがういいかたをすれば、「その本とつながっていなければ、縁がなければそまりようがない」ともいえそうである。
ということであれば、本をよむという行為は、「その本と縁ができており、つながっている」ということでもある。