しんじつ・真相というものは、そとからみえるカタチ・すがたとはちがうらしい。つまり、ひょうめんじょう、がいけんじょうとはちがう、よそうがいのカタチをしているようである。
ほんとうのりゆう、げんいん、はんにんは、よそうがいのひと、ものごとであることがおおい。ちなみに、すいりしょうせつは、まさにこの前提じょうけんにたっているようだが、これはなにも、しょうせつのなかだけではなくて、げんじつのせかいにおいても、じゅうぶんにあてはまりそうである。
つまり、「じぜんのだんかいにおいて、よそうすることができる」ということは、「しんじつ、しんそう、しんはんにん、しんのりゆう・げんいんではない」ということである。
もっとろこつにいってしまえば、「じぜんによそうしたことは、ハズレる」といってもいいのかもしれない。
ほんとうのりゆう・げんいん、しんじつ・しんそうなどは、じぜんにかんがえついたこととはちがう。だがしかし、こういうことは、すぐにわからないようである。これがわかるのは、「ずっとあとになってから」というケースがおおい。
ずっと、「なぜなのか」とかんがえつづけていると、ささいなことがキッカケとなって、あるときとつぜん、わかることがある。
それがはっせいしたときは、なんのいみもなさそうな「であい、できごと」であったのだが、あとになってかんがえてみると、「それがキッカケとなって、ものごと・状況・ながれなどが、おおきくかわったことにきづいた」というケースはおおい。
つまり、「アレがげんいん・りゆうになって、いまのけっか・状態になったんだ」とおもうことがある。
その「であい、できごと」がはっせいして、ソレとそうぐうしたことによって、それとであい、かかわりあうまえとは、おおきく状況・ながれなどがかわった。
ということであれは、それは「ぶんきてん」といってもいいのかもしれない。これは、ひとだけではなくて、あらゆることをふくむ。
たとえば、「あのとき、あのひととであったから、いまのじぶんがある」だとか、「あのとき、あの本をよんだから、いまのじぶんがある」もそうであろう。
これも、じぶんがほかのなにかとであい、かかわったことである。縁といってもいいであろう。
ひとがなにかとであい、かかわりあった。そして、ソレがキッカケ・ぶんきてんとなり、おおきく「なにか」がかわることがある。
どうやらひとは、こういうときにこそ、「うんめいてきなもの」をかんじるようである。「これは、うんめいかもそれない。ぐうぜんじゃない」とおもうことがある。
ということであれば、ひとは、なにかと、だれかとであったときにこそ、どうやら「うんめい」をかんじるのかもしれない。
そして、「であい」とは、ほかのそんざいとつながること、かかわりあうことである、つまり「縁」のことである。
ならばひとは、縁にかんすることにこそ、「うんめい」をかんじるのかもしれない。ということであれば、どうやら「うんめい」と「縁」は、みっせつにかかわりあい、「きりはなせない」ともいえそうである。
ということであれば、ひとのうんめいと縁は、「いちまいのコインのうらおもて」であり、ひとのうんめいとは、縁のことをいうのかもしれない。