ひとが、じぶんのうんめいについて、つよく意識するようになるのは、どうやら、しゃかいにたいして出ていってからのようである。
では、しゃかいにたいして出ていくと、なぜ「じぶんのうんめい」というものについて、つよく意識するようになるのか。
それは、「しごとをして、はたらいているから」といってもいいであろう。あたりまえのことではあるのだが、しごとをして、はたらいているのであれば、だれであっても、「じぶんのじゆう、おもいどおりにならない」というケースがふえる。
そして、コレがふえればふえるほど、じぶんの意思・期待・がんぼうとはむかんけいに、イロイロなめにあうことがふえる。
これは、ろこつにいってしまえば、「じぶん以外のなにかが、じぶんのかんがえ、このみ、期待、がんぼう、意思などにかんけいなく、じぶんのことをきめている」という状態である。
こういう状態のことを、どうやらひとは「うんめい」とよぶようである。なにせ、じぶんのじゆうに、おもいどおりにできない状況なのだから。
では、なぜしゃかいにたいして出ていって、はたらくようになると、こういうめにあうのであろうか。それは、「そしきにはいり、上司のめいれいに、または、おきゃくのようぼうにしたがうから」といえそうである。
これらは、じぶんの意思・期待・がんぼうとは、せいはんたいのことをめいじてくる。そして、たちばじょう、じぶんとしては、ソレにたいしてさからうことができない。もしも、さからってばかりいたら、「そんなにこのしごとがイヤなら、さっさとやめろ」となってしまう。
上司やおきゃくとあい、せっするからこそ、こういうめにあわざるをえない。ということであれば、あたりまえのことではあるのだが、そういうひとたちと、あわず、せっしなければ、イヤなめいれいもこない。
つまり、「上司やおきゃくとあい、せっする」ということがげんいんとなる。これはつまり、「ほかのひととの縁が、げんいんになっている」といってもいいのではないだろうか。
いいかたをかえれば、がくせいじだいとは、ちがうえんができるからこそ、ひとは「うんめい」というものを、つよく意識するのかもしれない。