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末永慎のブログ

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ひとが、じぶんのうんめいについて、つよく意識するようになるのは、どうやら、しゃかいにたいして出ていってからのようである。

 

では、しゃかいにたいして出ていくと、なぜ「じぶんのうんめい」というものについて、つよく意識するようになるのか。

 

それは、「しごとをして、はたらいているから」といってもいいであろう。あたりまえのことではあるのだが、しごとをして、はたらいているのであれば、だれであっても、「じぶんのじゆう、おもいどおりにならない」というケースがふえる。

 

そして、コレがふえればふえるほど、じぶんの意思・期待・がんぼうとはむかんけいに、イロイロなめにあうことがふえる。

 

これは、ろこつにいってしまえば、「じぶん以外のなにかが、じぶんのかんがえ、このみ、期待、がんぼう、意思などにかんけいなく、じぶんのことをきめている」という状態である。

 

こういう状態のことを、どうやらひとは「うんめい」とよぶようである。なにせ、じぶんのじゆうに、おもいどおりにできない状況なのだから。

 

では、なぜしゃかいにたいして出ていって、はたらくようになると、こういうめにあうのであろうか。それは、「そしきにはいり、上司のめいれいに、または、おきゃくのようぼうにしたがうから」といえそうである。

 

これらは、じぶんの意思・期待・がんぼうとは、せいはんたいのことをめいじてくる。そして、たちばじょう、じぶんとしては、ソレにたいしてさからうことができない。もしも、さからってばかりいたら、「そんなにこのしごとがイヤなら、さっさとやめろ」となってしまう。

 

上司やおきゃくとあい、せっするからこそ、こういうめにあわざるをえない。ということであれば、あたりまえのことではあるのだが、そういうひとたちと、あわず、せっしなければ、イヤなめいれいもこない。

 

つまり、「上司やおきゃくとあい、せっする」ということがげんいんとなる。これはつまり、「ほかのひととの縁が、げんいんになっている」といってもいいのではないだろうか。

 

いいかたをかえれば、がくせいじだいとは、ちがうえんができるからこそ、ひとは「うんめい」というものを、つよく意識するのかもしれない。