「じぶんのじんせい・みらいのすべては、うんめいしだいだ」だとか、「すべてのことは、うんめいできまっている」など、このようにかんがえるのであろう「うんめい論者」というタイプのひとは、よのなかに、たくさんいるようである。
では、なぜこういうタイプのひとが、よのなかに、たくさんそんざいしているのであろうか。それには、なにかしら、りゆうがあるかとおもわれる。
おそらく、そのりゆうのひとつとして、「しゃかいにたいして出ていって、しごとをして、はたらいているから」というものが、どうやらあるのかもしれない。
なぜならば、しゃかいにたいして出でいって、しごとをして、はたらくようになると、あたりまえのことではあるのだが、「じぶんのじゆう」というものが、がほとんどなくなってしまうのだから。
そのために、じぶんがしぬほどイヤであり、やりたくないようなことであっても、上司からのめいれいであれば、きょうせいてきに、ソレをやらされることになる。
だからこそ、ひとは、冒頭にのべたようなことを、かんがえるようになるのかもしれない。つまり、「けっきょくのところ、すべては運しだいだろう」とおもうのではないだろうか。
すべてのことが、じぶんのじゆうに、おもいどおりに、がんぼう・期待・かんがえのとおりになるのであれば、そもそもひとは、「これはうんめいだ」だとか、「これは縁だ」などとおもわないはずである。そんなことを、いちいちかんがえたり、いしきするはずがない。
ということであれば、よのなか・しゃかいのなかに、「うんめいをかんじる」というタイプのひとがおおいのは、「よのなか・しゃかいが、じぶんのじゆうに、おもいどおりに、がんぼう・期待・かんがえのとおりにならないことの証拠だ」といえるのかもしれない。