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末永慎のブログ

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おそらく、ひとが「幸福」をかんじたりするのは、じぶんのスキなことをしていたり、あるいは、スキなものてにいれたり、さらには、「期待・がんぼうがじつげんし、ソレがかなった」というときかとおもわれる。

 

だがしかし、それだけではなくて、「わるいこと、きけん・もんだい、イヤなことがおきていない」という状態にたいしても、もしかしたら、幸福感をおぼえるときがあるのかもしれない。

 

これは、くろうしたひとであるほど、そういう傾向がつよいようである。なぜならば、ぞくにいう「くろうにん」というタイプのひとは、それまでのじんせいにおいて、たくさんのマイナス・ふうん・ふこう・わるいことをしっており、たいけんしているのだから。

 

だからこそ、「平穏無事」という状態を、ありがたいとおもえるのであろう。

 

いっけんすると、つまり、たにんがみていると「なんのおもしろみもない、たいくつなじんせいだ」とおもえるのだが、そのとうのほんにんにとっては、その「たいくつ」こそが、「ありがたい」とかんじており、かつ「うれしい」とおもえるのである。

 

このようにかんがえてみると、「おおくを期待し、たかのぞみしすぎる」というタイプのひとは、どうやら、それまでのじんせいにおいて、あまり、くろうをしたことがないのかもしれない。

 

つまり、「よのなか・しゃかい、にんげんのこわさ、ざんこくさ、いやらしさ」などなど、わるいマイナスのぶぶんをみておらず、しらず、けいけんしていないのである。

 

だからこそ、じぶんのじんせい・みらいにたいして、たかいりそう・期待・がんぼうなどをいだいたとしても、しかたがないかとおもわれる。

 

たしかに、「じぶんのじんせい・みらいにたいして、たかいユメ・りそう、期待・がんぼうなどをいだく」という行為は、たいせつなことかもしれない。

 

そういうタイプのひとが、いっていすうそんざいしているからこそ、よのなか・しゃかいはしんぽしたり、はってんしてきたかとおもわれる。

 

だがしかし、モノにはげんどがある。それに、そもそも、「ユメ・りそう、期待・がんぼうがかない、じつげんした」というタイプのひとは、よのなか・しゃかいのぜんたいでみれば、しょうすう派にすぎないはずである。

 

よのなか・しゃかいにいるという、たくさんのひとたち、つまり、あっとうてきにだいたすうのひとたちは、じぶんのユメ・りそう、期待・がんぼうなどがかなわず、じつげんしない。そして、じぶんがかんがえていたり、のぞんでいたじんせいとは、「まったくちがうじんせい」をというものを、あゆんでいるはずである。

 

そういうときに、あまりにもつよいユメ・りそう、期待・がんぼうなどを、いつまでもいだいていると、「じぶんのめのまえにある、じっさいのげんじつの状態」というものが、正確にみえなくなるようである。

 

つまり、なんでもかんでも、「じぶんにとって、つごうがよいことしかみえなくなる」という状態になりかねない。こういう状態のヒトを、ひとことでいってしまえば、「めのまえのげんじつが、みえていないヒト」というタイプになりそうである。

 

わかいときからくろうして、せけん・しゃかい・よのなかのつらさ・きびしさをしっているひとは、「げんじつのつらさ・きびしさをしっている」といういみの指摘をきくことがあるが、そのりゆうとしては、うえにあげたものがあるのかもしれない。