おそらく、ひとが「幸福」をかんじたりするのは、じぶんのスキなことをしていたり、あるいは、スキなものてにいれたり、さらには、「期待・がんぼうがじつげんし、ソレがかなった」というときかとおもわれる。
だがしかし、それだけではなくて、「わるいこと、きけん・もんだい、イヤなことがおきていない」という状態にたいしても、もしかしたら、幸福感をおぼえるときがあるのかもしれない。
これは、くろうしたひとであるほど、そういう傾向がつよいようである。なぜならば、ぞくにいう「くろうにん」というタイプのひとは、それまでのじんせいにおいて、たくさんのマイナス・ふうん・ふこう・わるいことをしっており、たいけんしているのだから。
だからこそ、「平穏無事」という状態を、ありがたいとおもえるのであろう。
いっけんすると、つまり、たにんがみていると「なんのおもしろみもない、たいくつなじんせいだ」とおもえるのだが、そのとうのほんにんにとっては、その「たいくつ」こそが、「ありがたい」とかんじており、かつ「うれしい」とおもえるのである。
このようにかんがえてみると、「おおくを期待し、たかのぞみしすぎる」というタイプのひとは、どうやら、それまでのじんせいにおいて、あまり、くろうをしたことがないのかもしれない。
つまり、「よのなか・しゃかい、にんげんのこわさ、ざんこくさ、いやらしさ」などなど、わるいマイナスのぶぶんをみておらず、しらず、けいけんしていないのである。
だからこそ、じぶんのじんせい・みらいにたいして、たかいりそう・期待・がんぼうなどをいだいたとしても、しかたがないかとおもわれる。
たしかに、「じぶんのじんせい・みらいにたいして、たかいユメ・りそう、期待・がんぼうなどをいだく」という行為は、たいせつなことかもしれない。
そういうタイプのひとが、いっていすうそんざいしているからこそ、よのなか・しゃかいはしんぽしたり、はってんしてきたかとおもわれる。
だがしかし、モノにはげんどがある。それに、そもそも、「ユメ・りそう、期待・がんぼうがかない、じつげんした」というタイプのひとは、よのなか・しゃかいのぜんたいでみれば、しょうすう派にすぎないはずである。
よのなか・しゃかいにいるという、たくさんのひとたち、つまり、あっとうてきにだいたすうのひとたちは、じぶんのユメ・りそう、期待・がんぼうなどがかなわず、じつげんしない。そして、じぶんがかんがえていたり、のぞんでいたじんせいとは、「まったくちがうじんせい」をというものを、あゆんでいるはずである。
そういうときに、あまりにもつよいユメ・りそう、期待・がんぼうなどを、いつまでもいだいていると、「じぶんのめのまえにある、じっさいのげんじつの状態」というものが、正確にみえなくなるようである。
つまり、なんでもかんでも、「じぶんにとって、つごうがよいことしかみえなくなる」という状態になりかねない。こういう状態のヒトを、ひとことでいってしまえば、「めのまえのげんじつが、みえていないヒト」というタイプになりそうである。
わかいときからくろうして、せけん・しゃかい・よのなかのつらさ・きびしさをしっているひとは、「げんじつのつらさ・きびしさをしっている」といういみの指摘をきくことがあるが、そのりゆうとしては、うえにあげたものがあるのかもしれない。