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末永慎のブログ

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にんげんのかんがえかたには、どうやら、「りづめでいっこいっこ、リクツをつみあげていく」というやりかたと、「リクツではなくて、ちょっかんてきなヒラメキ」のふたつがあるようである。

 

そして、「りづめの思考」というものは、いいかたをかえれば、「ものごとを、ろんりてきにかんがえていく」ということである。「ロジカルな思考」といってもいいであろう。

 

これとはべつに、「ちょっかんによるヒラメキ」とは、「リクツでは、そのないようを、うまくせつめいすることができないのだが、なぜかアタマにうかんだもの」といってもいいかもしれない。

 

たいていのひとは、おそらく、「ものごとをかんがえる」というときは、りづめの思考をしているかとおもわれる。

 

なにせ、「ちょっかんによるヒラメキ」というものは、かなりたかいかくりつで、ハズレてしまうことがおおいのだから。

 

これは、しごとをしておらず、せきにんをもっていないという「がくせい」であれば、かんがえたことがハズレたとしても、おそらく、あまりもんだいはないであろう。なにせ、はたらいていないのだから。

 

もっといってしまえば、はたらいていないという以上、かんがえがハズレたことによって、なにかもんだいがおきてしまったとしても、「そのせきにんを、きびしく指摘・ついきゅうされる」ということは、きほんてきにはすくないはずである。

 

だがしかし、しゃかいにたいして出ていって、しごとをしてはたらくようになると、おそらく、こうはいかないはずである。

 

そもそも、たいていのひとは、そしきのなかで、「はぐるま」というたちばで、はたらくことがおおいのではないだろうか。

 

ということであれば、かんがえたことが、なんどもなんどもハズレてしまい、そのせいで、たくさんのもんだい・トラブルがおきたのであれば、おなじ職場のひとたちにたいして、たくさんのめいわくをかけることになる。もっといってしまえば、じぶんの上司などのいかりをかうことになる。

 

つまり、「じぶんじしんが、もんだい・トラブルをおこした」というせきにんを、きびしく指摘・ついきゅうされるだけでなく、しゅういのひとたちとの「にんげんかんけい」についても、いずれは、こわれてしまうはずである。

 

こういうことが、なんどもつづいてしまえば、そのヒトは、いずれ、そのそしき・しょくばから、はいじょされてしまいかねない。つまり「クビ」になりかねない。

 

しごとをしている「しゃかいじん」というそんざいが、いつも、そのとき・そのばで、とつぜんアタマにうかんだという「ヒラメキ」だけでかんがえて、はんだんし、けつだん・意思けっていをしていると、いずれはヒドイめにあいそうである。