にんげんのかんがえかたには、どうやら、「りづめでいっこいっこ、リクツをつみあげていく」というやりかたと、「リクツではなくて、ちょっかんてきなヒラメキ」のふたつがあるようである。
そして、「りづめの思考」というものは、いいかたをかえれば、「ものごとを、ろんりてきにかんがえていく」ということである。「ロジカルな思考」といってもいいであろう。
これとはべつに、「ちょっかんによるヒラメキ」とは、「リクツでは、そのないようを、うまくせつめいすることができないのだが、なぜかアタマにうかんだもの」といってもいいかもしれない。
たいていのひとは、おそらく、「ものごとをかんがえる」というときは、りづめの思考をしているかとおもわれる。
なにせ、「ちょっかんによるヒラメキ」というものは、かなりたかいかくりつで、ハズレてしまうことがおおいのだから。
これは、しごとをしておらず、せきにんをもっていないという「がくせい」であれば、かんがえたことがハズレたとしても、おそらく、あまりもんだいはないであろう。なにせ、はたらいていないのだから。
もっといってしまえば、はたらいていないという以上、かんがえがハズレたことによって、なにかもんだいがおきてしまったとしても、「そのせきにんを、きびしく指摘・ついきゅうされる」ということは、きほんてきにはすくないはずである。
だがしかし、しゃかいにたいして出ていって、しごとをしてはたらくようになると、おそらく、こうはいかないはずである。
そもそも、たいていのひとは、そしきのなかで、「はぐるま」というたちばで、はたらくことがおおいのではないだろうか。
ということであれば、かんがえたことが、なんどもなんどもハズレてしまい、そのせいで、たくさんのもんだい・トラブルがおきたのであれば、おなじ職場のひとたちにたいして、たくさんのめいわくをかけることになる。もっといってしまえば、じぶんの上司などのいかりをかうことになる。
つまり、「じぶんじしんが、もんだい・トラブルをおこした」というせきにんを、きびしく指摘・ついきゅうされるだけでなく、しゅういのひとたちとの「にんげんかんけい」についても、いずれは、こわれてしまうはずである。
こういうことが、なんどもつづいてしまえば、そのヒトは、いずれ、そのそしき・しょくばから、はいじょされてしまいかねない。つまり「クビ」になりかねない。
しごとをしている「しゃかいじん」というそんざいが、いつも、そのとき・そのばで、とつぜんアタマにうかんだという「ヒラメキ」だけでかんがえて、はんだんし、けつだん・意思けっていをしていると、いずれはヒドイめにあいそうである。