なんどもなんども、かんがえたことがハズレてしまった。そして、そのたびに、たくさんのトラブル・もんだいがおきてしまった。と、こういう状態になってしまえば、あたりまえのことではあるのだが、そのせきにんを指摘され、ついきゅうされることになる。だから、いずれは、じぶんじしんがくるしむことになる。
ピーター・F・ドラッカーは、「ヒラメキにたよるけいえい者は、ヒラメキのようにきえていった」といういみの指摘をしていたが、しゃかいにたいして出ていって、しごとをしてはたらいているひとが、ヒラメキだけにたよって、ものごとをはんだんし、けつだん・意思けっていをして、じっこう・こうどうをすると、かなりきけんなことになりそうである。
では、「りづめの思考」というものだけが、ぜったいにただしいのであろうか。どうやら、そうともいいきれないようである。
どれほどリクツで、つまり、りづめでかんがえてみても、そういうけつろんにはならない。なりようがない。だがしかし、どうにも「そのアイデア」というものが、なんどもアタマにうかんできてしまい、キッパリと無視することができない。
という、いわば、「ちょっかんによる、つよいヒラメキ」というものが、ときどきあるようである。「いや、これはしょせん、たんなるおもいつきだから」と無視して、それをアタマからけそうとしても、なんどもなんども、アタマにうかんできてしまう。
なんどリクツで、りづめでかんがえてみても、こういうけつろん・アイデアにはならない。なりようがない。ということであれば、ソレはつまり、「それまでのながれ・ものごととひかくすると、ないように、かなり飛躍がある」ということになる。
こういうときは、たとえリクツにあわないことであっても、すべて無視はしないほうがよさそうである。
そういう、いわば「無視することができない、ちょっかんによる、つよいヒラメキ」というものは、もしかしたら、むいしきのうちに、なにかたいせつなことにきづいており、りくつを形成するまでにいたっていないのだが、じゅうようなことだから、「つよいヒラメキ」というかたちで、じぶんのアタマにうかんでいるのかもしれない。
きほんてきには、じかん・ろうりょくがかかるのだが、「いっこいっこ、リクツをつみあげていく」という、りづめの思考でものごとをかんがえて、はんだんし、けつだん・意思けっていをして、じっこうし、おこなっていくべきであろう。
だがしかし、ときどきアタマにうかぶことがある、こういう「ちょっかんによる、つよいヒラメキ」というものも、あながちバカにできないのかもしれない。