そもそも、「にんげんが、ものごとをかんがえる」というときは、「かんがえることによって、その対象となるものごとを、りかいして、なにかしらのりえき・成果などをひきだしたり、ムリ・むじゅんがないようにして、キケン・もんだいを避けたい」などとおもうからこそ、ものごとをかんがえるはずである。
そうであれば、その対象となるものごとについて、じゅうぶんに、じかんをかけてしらべたり、じゅんびしたり、すこしでもキケン・もんだいをへらして、「そのないようを、よいものにしたい」とおもうはずである。
だからこそヒトは、そういうことを、じゅうぶんにおこなうことができないという「とっぱつてきな事態」や、「よそうがいの状況であったり、へんかのはげしい状態」というものを、きらうかとおもわれる。
これは、「そのものごと・状況について、じぶんがほとんどしらず、わかっていない」という状態である。それなのに、「すばやいりかい、はんだん、けつだん・意思けってい」というものが、ひつようになってくる。
これでは、その対象となったものごと・状態から、「なにかしらの、りえき・成果をひきだしたり、ムリ・むじゅんをなくして、キケン・もんだいを、すくないカタチにしよう」としても、おそらく、たいていのヒトは、できやしないであろう。
だからこそ、まちがえることになる。そして、たいていのヒトは、そういうことを、おそらく本能的に、よくしっているかとおもわれる。
あたりまえのことではあるのあが、「へんかがはげしい」という状態においては、じぜんのだんかいにおいて、じゅうぶんに、ちょうさ・じゅんび・思考をすることができない。こういうことは、よくいわれる。たしかにソレは、そのとおりであろう。
ぞくにいう、「乱世」においては、へいぼんないっぱんじんは、「はんだん、けつだん・意思けってい」というものを、よくまちがえてしまう。だからこそ、「しっぱい、はいぼく、ミスなどをくりかえして、ぼつらくしてしまう」というケースががおおい。
これは、にほんのれきしにおける「乱世」であったという、「せんごくじだい」や「ばくまつ」のことをかんがえてみれば、たいていのヒトは、すぐりかいすることができるのではないだろうか。
これらのじだい、「とくべつにすぐれていない、いっぱんじん・ぼんじん」というヒトたちは、その「へんかのはげしい状態」というものにたいして、うまくたいおうして、たいしょすることができなかった。だから、しっぱい・はいぼく・ミスなどをくりかえした。そして、敗者のがわになり、ぼつらくしていったのである。
だがしかし、こういうことは、あるいみにおいて、しかたがなかったことなのかもしれない。
そもそも、ふつうのヒトであれば、そういう、「へんかのはげしい」という状況下において、「じぶんがよくしらず、わからないものごとを、すばやくりかい・はんだんをして、てきせつに、けつだん・意思けっていをする」ということなど、できやしないのだから。
どうやら、「へんかのはげしい状態をいきぬく」ということは、われわれのような、へいぼんないっぱんじん・ぼんじんにとっては、かなりきびしいことなのかもしれない。