あたりまえのことではあるのだが、「へんかのはげしい」という状況下においては、どうしても、「すばやいはんだん、けつだん・意思けってい」というものが、つよくもとめられることになる。
そして、こういうことは、へいぼんないっぱんじん・ぼんじんにとって、かなりむずかしいこととなる。というよりも、「ほとんど、ふかのうにちかい行為」と、いってしまってもいいのかもしれない。
そして、こういう、われわれのような、へいぼんないっぱんじん・ぼんじんにとって、ほとんどふかのうにちかいことを、うまくやれるタイプのヒトのことを、ぞくに「天才」というのかもしれない。
たしかに、れきし上にあらわれた、「天才」というタイプのひとたちは、ほかのへいぼんなヒトたちが、どれだけじかんをかけてしらべたり、かんがえてもわからず、りかいすることができないような、むずかしい状況下であっても、そのものごと・状況について、すばやくはんだんをして、てきせつに、けつだん・意思けっていをしている。そういうことができている。
へんかのはげしい「乱世」において、かつやくして、たくさんの実績をのこした。というヒトについてかかれた本をよんでみると、「よくもまあ、こんなにすばやくはんだんして、きめることができたもんだ」と、おもってしまうことがおおい。
そして、「もしもじぶんが、そのヒトのたちばにいたとしたら」とかんがえてみると、「おそらく、いつまでたっても、はんだんができない。だから、けつろんをだすことができないだろう。そして、これからさき、なにを、どうすればいいのか。ということが、いつまでたっても、きめることができないだろう」とおもってしまう。
こういうことは、にほんのれきしであれば、「せんごくじだい」や「ばくまつ」というじだいに、かつやくしたヒトのことをかんがえてみれば、たいていのヒトが、おなじことをおもうのではないだろうか。
こういう、「へんかのはげしい」という乱世においては、あたりまえのことではあるのだが、「へんかがはげしいために、それまでとは、すぐに状況がかわってしまう」であったり、あるいは、「とっぱつてきで、よそうがいの事態にそうぐうする」というケースが、たくさんあることになる。
そして、そういうケースになってしまえば、たいていのヒトは、パニックになったり、あるいは、こんらんしてしまうはずである。
だからこそ、「ただしく状況をりかいする」ということができない。そのために、「ただしくはんだんして、てきせつに、けつだん・意思けっていをする」ということができない。
このような状態になってしまえば、「このものごと・あんけんについては、こんご、どうすればいいのか」だとか、「これからさき、なにを、どうすればいいのか」ということを、きめることがむずかしくなる。というよりも、きめることができなくなってしまう。
つまり、いつまでたっても、その状況をりかいすることができず、ただしくはんだんができない。だからこそ、けつだん・意思けっていをすることが、いつまでたってもできない。
にもかかわらず、こういう、「へんかがはげしくて、きびしいじだいにかつやくした」というヒトたちは、すばやく、なにかしらのはんだんをして、けつだん・意思けっていをすることによって、ものごとを、ドンドンすすめていってしまうのだ。
せんごくじだいの織田信長や、ばくまつの高杉晋作・坂本龍馬などが、そのわかりやすい事例かとおもわれる。
こういうことは、われわれのような、へいぼんないっぱんじん・ぼんじんにとって、ほとんど、ふかのうにちかいことであろう。つまり、かれらのマネをしようとしても、まずできやしない。
ということであれば、もしもじぶんが、とっぱつてきな事態や、よそうがいの状況になりやすい、へんかのはげしい状態におかれたとしたら、ムリになにかをやろうとせずに、むしろ、ジッとがまんして、その状況がおちつくのを、まったほうがよいのかもしれない。
じぶんのもっている、ずのう・さいのう・のうりょくのレベルでは、よくりかいできず、うまくやれないことをやろうとしても、それは、しっぱいするだけである。そうであるならば、やはり、ムリはしないほうがさそうである。
ヒドイあらしのなかで、ムリにひこうきをとばしたり、フネをだしたりすれば、それはだいじこや、そうなんのキケンせいがたかまることになる。
ということであれば、あたりまえのことではあるのだが、あらしがおさまるのをまつべきである。ジッとまっているべきである。
へんかのはげしい状態においては、よほどたかいレベルのずのう・のうりょく・さいのうをもっているという、とくべつにすぐれるヒト以外は、つまり、天才というヒト以外は、ムリになにかをしようとせずに、ジッとして、おとなしくしているべきかもしれない。