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末永慎のブログ

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なんでもかんでも、ささいなことにいたるまで、すべてのことを、「たくさんのヒトとはなしあったり、ちょうせいしたり、ねまわしをしてから、ものごとをきめて、すすめていく」ということはできない。

 

こまかいことにいたるまで、こういうことをイチイチやっていると、あたりまえのことではあるのだが、いつまでたっても、そのものごとはきまらないはずである。だから、いつまでたっても、すすんでいかないことになる。

 

それにコレは、いいかたをかえれば、「たくさんのヒトの主張・いけん・要望にたいして、イチイチはいりょをする」というカタチになる。

 

ということであれば、やはり、いつまでたっても、そのものごとは、まとまらないはずである。だから、いつまでたっても、けつろんがでることがない。つまり、「きまらない」という状態になる。

 

それに、こういうやりかたは、じかん・ろうりょくなどが、あまりにもかかりすぎてしまう。だから、いそぎのあんけん・事例であったり、期限がみじかいものであれば、ソレにまにあわなくなってしまう。

 

もっといってしまえば、はなしあっているあいだに、さらに状況がへんかしてしまった。そのために、「やっといけんをまとめて、けつろんをだせたとおもったら、そのあいだに状況がかわってしまい、せっかくだしたけつろんが、ムダになってしまった」というケースすら、ありえるのではないだろうか。

 

それに、「レベルのたかい、すぐれたずのう・のうりょく・さいのうをもっている」というタイプのヒトは、そもそも、このよのなかに、ほんのすこししかいないのである。

 

そのために、かんたんであったり、ちいさなことであればよいとしても、「ふくざつ・難解・高度なむずかしいことを、だれかにきいたり、そうだんしなければならない」というケースであれば、そうだんするあいてを、ちゃんと、えらばなければならないはずである。

 

司馬遼太郎がかいた『竜馬がゆく』というさくひんに、「愚人にそうだんすれば、かえってハナシがややこしくなる」といういみの指摘があったが、おそらくコレは、しんじつであるかとおもわれる。

 

たしかに、きいたり、そうだんするないようによっては、そのあいてを、ちゃんとえらんだほうがよさそうである。

 

なにせ、ろこつにいってしまえば、「バカにきいたり、そうだんしたことによって、かえってハナシがややこしくなったり、こんらんしてしまった」というケースは、よのなかにおおいのだから。

 

また、あたりまえのことではあるのだが、ふくざつ・難解・高度なむずかしいことを、おろかでバカなヒトにたいしてきいたり、そうだんしたところで、てきせつないけん・じょげんなど、もらえるはずがないのだ。

 

たしかに、「じぶんがしらず、わからないことや、まよっていることを、ほかのヒトにたいしてきいたり、そうだんして、そのいけんをきく」という行為は、たいせつなことである。

 

にんげんであれば、どれほどアタマのよいヒトであっても、「じぶんだけではみえず、きづかず、しらず、わからず、みおとしてしまう」ということはおおい。

 

だからこそ、「そういうことに気がつかなかったせいで、おおきなしっぱい・はいぼくをしてしまう」というケースは、じゅうぶんにありえるはずである。

 

それに、そもそも、じぶんがよくしらず、わからず、にがてであり、不得手なぶんやのことであれば、やはり、ほかのヒトにたいしてきいたり、そうだんしなければならないはずである。

 

だがしかし、「そのあいては、だれでもよい」というわけではない。それに、「とにかく、たくさんのヒトにたいしてきいたり、そうだんして、そのいけん・じょげんをきくべきだ」というわけでもないようである。

 

じぶんが、「なにかをかんがえたり、はんだんして、けつだん・意思けっていをしなければならない」というときは、「このあんけんについて、いけんをきいたり、そうだんすべきあいてとは、いったいだれであり、なんにんいるのか」ということもまた、ちゃんとかんがえなければならないのかもしれない。