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末永慎のブログ

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ふくざつ・難解・高度なむずかしいことや、じゅうようなもんだい・あんけんについては、むやみやたらに、たくさんのヒトにたいしてきいたり、そうだんして、いけんをきくべきではない。

 

そうではなくて、レベルのたかい、すぐれたずのう・のうりょく・さいのうをもっているという、しょうすうのヒトにしぼり、げんていして、いけんをきいたり、そうだんしたほうがよいのかもしれない。

 

おろかなヒトに、つまり、バカにたいしていけんをきいたり、そうだんしてしまったせいで、「かえってハナシがこじれたり、ややここしくなり、こんらんして、状況があっかしてしまった」というケースは、よのなかにたくさんある。

 

ということであれば、やはり、ふくざつ・難解・高度なむずかしことや、じゅうようなもんだい・あんけんについては、いけんをきいたり、そうだんすべきあいてを、ちゃんとえらばなければならない。

 

もっといってしまうと、いけんをきいたり、そうだんするあいてを、ちゃんと、しぼりこまなければならないであろう。

 

だがしかし、「すべてのことを、しょうすうのヒトだけでかんがえて、はんだんし、けつだん・意思けっていをしている」という状態は、ぞくにいう「どくさい」であったり、「専制的」ということになりかねない。

 

そして、どうやらわれわれ「にほんじん」は、こういう状態のことを、はげしくきらっており、かなりつよい、ふへい・ふまん・不快感をもってしまうようである。

 

しょうすうのヒトだけで、とにかく、なんでもかんでも、こまかいことにいたるまで、すべてのことをはんだんし、きめているという状態は、いいかたをかえれば、「あっとうてきにだいたすうである、ほかヒトたちは、なにもきめることができず、ただたんに、そのしょうすうの決定者にたいして、したがっているだけ」という状態になってしまう。

 

これでは、あっとうてきにだいたすうのひとたちは、つよいふへい・ふまん・不快感をもつであろう。

 

そして、こういう状態になってしまえば、あたりまえのことではあるのだが、決定者であるしょうすうのヒトと、それにしたがうだけの、あっとうてきにだいたすうのヒトたちとの「にんげんかんけい」というものは、かなりわるくなり、ヒドイものになるはずである。

 

そして、にほんじんは、「そのとき・そのばの和をとうとび、主流のくうきにたいしては、すぐにげいごうする」という、つよいとくちょうをもっている。

 

これはつまり、「ほかのヒトとのにんげんかんけいを、良好にたもつことをじゅうしする」ということでもある。

 

いいかたをかえれば、「にんげんかんけいをこわし、あっかさせるようなことは、和をみだし、くうきをよまず、みだすことになる。だから、さけようとする」ともいえるであろう。

 

しょうすうのヒトだけで、こまかいことにいたるまで、あらゆるものごとをはんだんし、きめてしまい、あっとうてきにだいたすうである、ほかのヒトたちは、ただそれにしたがうだけ。と、こういう状態では、どうしても、そのしょうすうの決定者と、あっとうてきにだいたすうである、ほかヒトたちとのにんげんかんけいは、あっかしてしまい、ヒドイものになる。

 

だからこそ、この「にほん」では、「どくさい」という状態は、なかなかせいりつしないのではないだろうか。

 

ということであれば、やはり、この「にほん」という国にいるにもかかわらず、こまかいことにいたるまで、あらゆるものごとを、ひとりやしょうすうのヒトだけで、すべてきめてしまうということは、つまり、「どくさいてき」という状態にしてしまうのは、じつは、かなりキケンなことかもしれない。

 

ろこつにいってしまえば、「どこかで、あっとうてきにだいたすうである、ほかのヒトたちが、ふへい・ふまん・不快感などをバクハツさせて、クーデーターがおきるキケンせい・かくりつが、たかまってしまう」ということになる。

 

れきし上の事例でいえば、織田信長と大久保利通が、そのよい事例であるかとおもわれる。

 

こういうキケンせい・かくりつをたかめるようなことは、やはり、すべきではないであろう。

 

だがしかし、「なんでもかんでも、たくさんのヒトにたいして、いけんをきいたり、そうだんして、ちょうせいし、はいりょすればいい」というものでもない。

 

となると、いったいどうすべきなのであろうか。それにはやはり、どこかでバランスをとらなければならないはずである。

 

つまり、「どのあんけん・もんだいを、しょうすうのすぐれたヒトだけではなしあい、いけんをきいて、そうだんしてきめるのか」ということと、これとはぎゃくに、「どのあんけん・もんだいを、かのうなかぎり、たくさんのヒトとはなしあい、いけんをきいて、そうだんしたりして、ちょうせいし、ねまわしをしてきめるのか」というはんだんが、とてもじゅうようになりそうである。

 

そして、こういう「はんだん」というものが、ちゃんとできるヒトでないと、この「にほん」という国では、リーダーとして、まともにやっていけないのかもしれない。