もんだい・あんけんのしゅるいであったり、あるいは、そのないようのレベルによっては、だれにたいしてそうだんし、いけんをきくべきなのか。あるいはまた、どれだけのヒトにたいしてそうだんし、いけんをきくべきなのか。ということを、ちゃんと、かんがえなければならないようである。
こういうことが、ちゃんとできないのであれば、「ほんらいであれば、レベルのたかい、ずのう・のうりょく・さいのうをもっている、しょうすうのすぐれたヒトだけではなしあい、そうだんして、きめるべきことなのに、たくさんのおろかでバカなひとにたいしてもそうだんし、いけんをきいてしまった。そのために、かえってハナシがこじれたり、ややこしくなり、状況があっかしてしまった」というケースになることにだって、しゅうぶんありえるからである。
また、たくさんのヒトにたいしてそうだんし、いけんをきいて、ねまわしをしてから、おこなったほうがよいものごと・あんけんまでも、しょうすうのヒトだけできめてしまった。そのために、あっとうてきにだいたすうのほかのヒトから、「どくさいてきだ」とひはんされて、つよいふへい・ふまん・不快感をもたれてしまった。ということにだってなりかねない。
ということであれば、やはり、「このあんけん・もんだい・ものごとは、はたして、どちらのぶるいになるのか」ということを、てきかくに、ちゃんとはんだんしなければならないはずである。
これができるためには、なによりもまず、めいかくであり、ハッキリとした「はんだんきじゅん」というものが、じぶん自身になければならないであろう。そうでなければ、「てきせつなはんだん」というものなど、できるわけがないのだから。
そして、その「はんだんきじゅん」というものは、いいかたをかえれば、そのヒトのもっている「かちかん」であったり、「げんり・げんそく」ともいえそうである。
とはいっても、あまりにもつよい「かちかん、げんり・げんそく」をもっている。だから、ソレにたいして、「すこしでもいはんしたり、むじゅんするようなことは、いっさいみとめず、ゆずらない」というスタンスではこまってしまう。
なにせ、こういうタイプのヒトは、たんなる「がんこもの」であったり、「アタマのかたすぎる、おかしなヒト」にすぎないのだから。
かといって、あまりにも「無原則」というスタンスでも、やはり、こまってしまう。
ということであれば、やはり、はんだんきじゅんとなるべき「かちかん、げんり・げんそく」というものを、あるていどは、ハッキリともつことがひつようかもしれない。
そうでないと、「なにがじゅうようであり、ゆうせんすべきか」ということを、いざはんだんしようとしても、どうすればいいかわからないのだから。
堺屋太一氏は、「成功者は、ちしきはきゃっかんてきだが、りんりはしゅかんてきだ」といういみの指摘をしているが、これは、「ちしきはただしくなければならない。だから、きゃっかんてきな、ただしいちしきをてにいれなければならない。だがしかし、てにいれたちしきをつかって、どうやってかんがえて、はんだんするのか。ということについては、ほんにんのしゅかんにもとづいている」ということかとおもわれる。
そして、「ほんにんのしゅかん」とは、ほんにんのもっている「かんがえかた」のことであり、いいかたをかえれば、「かちかん、げんり・げんそく」のことかとおもわれる。
あたりまえのことではあるのだが、成功者とは、「ただしいけつだん・意思けってい・選択」というものを、たくさんおこなってきたからこそ、そのぶんやで成功したはずである。
まちがったけつだん・意思けってい・選択というものを、たくさんおこないつづけてしまえば、あたりまえのことではあるのだが、成功者になれるわけがない。
そして、「ただしいけつだん・意思けってい・選択をすることができた」というのは、いいかたをかえれば、「ただしいはんだんができたからだ」といえるはずである。
にんげんが、「なにかはんだんをする」というときは、あたりまえのことではあるのだが、じぶんのかんがえにもとづいている。もっといってしまえば、じぶんのもっている、「かちかん、げんり・げんそく」というものにもとづいて、ソレをおこなっているはずである。
そして、「成功者のりんりが、しゅかんてきである」のであれば、それは、「成功者とは、じぶんなりのかんがえかた、かちかん、げんり・げんそくというものを、つよくもっている」ということになるはずである。
あたりまえのことではあるのだが、よのなかのぜんいんが、成功者になることはできない。そんなことは、ぜったいにできるわけがない。
だがしかし、われわれのような、へいぼんないっぱんじんであっても、にちじょうのしごと・せいかつにおいて、たくさんのけつだん・意思けってい・選択をおこなわなければならない。
たとえほんにんが、「そんなことはしたくない。めんどくさいし、まちがってしまい、ミスをしてしっぱいしたらイヤだ」とおもったとしても、それらをせまられることもおおい。
そういうときに、まちがったけつだん・意思けってい・選択をおこないつづけてしまえば、たくさんのキケン・もんだい、ひがい・そんがいをまねくことになる。そのために、けっきょくのところは、じぶんがくるしむことになる。
ということであれば、やはり、成功者ほどではないにしても、あるていどは、ただしいけつだん・意思けってい・選択をしなければならない。
そのためには、思考・はんだんのざいりょうとなる「ちしき」については、じぶんのスキ・キライ、せんにゅうかん、おもいこみなど、しゅかんてきなものを排して、てっていてきに、きゃっかんなモノをあつめなければならないはずである。
だがしかし、それだけでは、どうやら、ふじゅうぶんのようである。てにいれた「ちしき」をつかって、「かんがえて、はんだんし、けつだん・意思けってい・選択をする」というときには、しゅかんてきなものである、じぶんの「かちかん、げんり・げんそく」というものを、つまり、じぶんなりの「はんだんきじゅん」というものを、ハッキリともっていなければならないのかもしれない。