ときどき、「ほかのヒトとじぶんを比較して、どちらがめぐまれており、しあわせかをかんがえるのは、よくない」といういみの指摘を目にしたり、みみにすることがある。コレはつまり、ことわざでいう「となりのしばふは、あおくみえる」というものであろう。
たしかに、一見すると幸福そうであり、しあわせにみえるヒトであるのだが、じつは、ほかのヒトからみえないところで、ぐたいてきには、家庭のなかなどで、おおきなふこう・ふうん・もんだい・トラブルなどをかかえており、しんこくになやんでいる。というケースもありえそうである。
それに、「はたからみると幸運であり、しあわせにみえることであっても、そのほんにんにとってはくつうであり、ふうん・ふこうにかんじている」というものごとも、あるはずである。
おなじひとつのものごと・できごとであっても、ヒトによって、どのようにかんじたり、どういう感想をもつのか。ということは、たしかにちがうはずである。
ヒトはおのおのが、ちがった信条・かちかん・かんがえかた・性格、たちば・事情などをもっているという以上、おなじひとつのものごと・できごとであっても、あるヒトは、それを「プラスのよいこと」とかんじるのだが、べつのヒトは、「わるいマイナスのこと」にかんじる。という状態になるのは、しかたがないのかもしれない。
これらのことをかんがえてみると、たしかに、「じぶんの幸運・幸福について、ほかのヒトとひかくしても、いみがない」という指摘には、いっていの説得力をかんじてしまう。
だがしかし、それでも、「ほかのヒトとやものごとと、ひかくする」という行為は、たいせつなものかとおもわれる。
いくら「じぶんが、ふうん・ふこうとおもわなければよい」とはいっても、「ほかのヒトからみて、あきらかにおかしくて、もんだいがある」ということもある。
そして、そういうことは、ほんにんは、まったく気がついておらず、つまり、にんしきをしていないのだが、「ほかのヒトから指摘をされたり、ほかのヒトや、ほかのものごとを知ることによって、じぶんのおかれた状態と、ほかの状態とを、ひかくをすることができた。そのために、じぶんのおかれている状態の異常さ、おかしさ、もんだいのおおさに気がついて、にんしきすることができた」というケースも、じゅうぶんにありえるはずである。
チョットきょくたんなたとえ・いいかたになるかもしれないが、「じゆう・けんり」というものを、まったくしらないにんげんであれば、じぶんがドレイのように、ほかのヒトからこきつかわれて、さべつ・はくがいされ、おカネもさくしゅされているとしても、「じゆう・けんり」というがいねんを、まったくしらないために、「いまのじぶんの状態が、あたりまえであり、めぐまれているんだ」と、おもってしまうかもしれない。
ほかのヒトや、ほかのものごとと、ひかくをすることができるからこそ、はじめて、「自他のちがい」というものについて、ヒトは知ることができるはずである。
そして、そのちがいついて、「じぶんのほうは、こういう状態なのに、なぜあいてはちがうのか。なぜあいては、ああいう状態なのか」というギモンがわいてくるであろう。
そのことによって、その「りゆう・げんいん」について、アレコレとかんがえたり、しらべたりすることができるようになる。
ということであれば、やはり、「じぶんのほうが、あきらかにわるい状態である」ということを、どこかのだんかいで、りかいして、にんしきすることができるかもしれない。
そして、その「りゆう・げんいん」が、「じゆう・けんり」というものの有無であれば、そこではじめて、「じゆう・けんり」というがいねんを、つまり、そのそんざいを、知ることができるかもしれない。
もしかしたら、「じゆう・がいねん」というがいねんは、ほかのヒトや、ほかのものごとと、ひかくすることによってこそ、ヒトははじめて、ハッキリと、そしてぐたいてきに知り、りかいして、にんしきすることができるのかもしれない。
もっといってしまえば、ほかのヒトや、ほかのものごとと、ひかくすることが、まったくできないような状態においては、「じゆう・けんり」というがいねんは、なりたたず、せいりつすることができないのかもしれない。
こういうことは、こくみんの「じゆう・けんり」というものを、きびしくせいげんしている中国・北朝鮮などの共産党の独裁国家が、「がいぶから情報がはいるのをしゃだんし、自国の状態と、がいこくの状態をひかくすることを、きびしくせいげんしている」という点に、よくあらわれているのかもしれない。