ちょっとぼやく。
切り口は面白いし、どの言語を操るかで確かに性格は変化する。自分も英語を話したり書いたりしている時は、やたらとくだらないジョークを入れたがる。日本語ではしないのに。
「言語は認知の反映」・「形式が違えば意味が違う」という、認知言語学という言語学の1分野の主張が元になっている。
ある言語でしか表現できない現象も存在する。
おそらく問題となっているのは、「第3者の目線」であると思う。
確かに言語の差で、この視点で見ているかどうかに差は出てくると思うが、これが胴体の動きの差までに影響しているとは考えにくい。
記事にあるように、トップチームは見ている世界が違うとあるが、全ての事象を言語で認知するように、認知しているとは言えないのではないか。
この説に従うと、日本語・日本文化には第3者的目線がないから、その目線がある欧米の言語・文化を取り入れないと第3者目線では見れないといったような、摩訶不思議な、違和感のある結論を導き出してしまう。
冷静に考えて、自分でもない相手でもない、いわゆる俯瞰して物事をみるという行為は、言語の差に関係なくできると思う。日本語にだって客観的という言葉は存在するし、これに相当する表現は他にあると思う。
問題なのは、これを読んだ子供たちが「英語をやればサッカーが上手くなる。日本語を使っているからサッカーが下手なのだ」という変な解釈をしかねない。非常に危険だ。英語至上主義や日本劣等や英語劣等感が見え隠れする。偏見を生みかねない。
言語の問題ではない、胴体深部の問題だ。
トップチームの世界と日本のサッカーの世界の差は、
胴体深部が動いている世界と動いていない世界の差である。
前者の世界でのゆっくりなスピードは、後者の世界では追いつけないぐらい速い。
見ている世界が別世界だから共有できない。だから、ボールを追いかけるしか打つ手がない。
ここでも書いたが、胴体深部が動くと空間認識能力が上がる。
というか認知機能そのものが根底から変わる。
これは第3者目線も含まれる。より立体的に幅広く俯瞰して周りが見えてくる。
ここに言語は一切介在しない。空間としてイメージとしてダイレクトに認知する。
っと、他は気にしないと書いたばかりだが、あまりに違和感を感じたので書いてしまった。まぁ、記事の解釈が合っているかもわからんが。